2007/01/14

雪国(川端康成著)

 川端康成の小説の中で、何が一番好きかと問われたら、私はちょっと迷った末に、『雪国』をあげるだろう。
 私が「ちょっと迷う」のは、青年期の瑞々しい感動に満ちた『伊豆の踊り子』を思うからだ。この作品の中の有名なセリフは、いつまでも私の記憶から消えることはない。

 「いい人ね」
 「それはそう、いい人らしい」
 「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」 
 
 孤児ゆえのひねくれた根性に反省を重ね、伊豆を一人旅する主人公は、偶然行き合わせた旅芸人たちの間で交わされた会話、この何気ない調子で語られた自分への評価を耳にして、澱んだ自分の心が清流に洗われるような感慨を抱く。
 主人公の孤独な魂を救済する、このささやかな美しいシーンは、同様に読者の胸にも一服の清涼剤のような、すがすがしい感動を刻む。そして、旅芸人たちと別れて、汽船の船室で鞄を枕にして横たわる主人公は涙を流す。頬が冷たくなって、鞄を裏返すほどに溢れる涙を出任せにする。
 孤独な魂が、自分にふと寄せられた人の好意を、素直に有難いものとして受け入れ、人間に対する信頼を回復する。そうした感動的な心の傾きを、清潔な文体で綴った『伊豆の踊り子』は、どのような時代をも超えて(人間の心情の本質はそれほど変わらないと私は信じるから)、万人の胸を打つ物語であり続けるにちがいない。
 思春期の私が初めて読んだ川端文学は『伊豆の踊り子』だった。たちまちにして川端康成のリリシズムに傾倒し、彼は私にとって愛する作家のひとりとなった。
 その後手当たり次第に作品を読み、川端美学がいくらかわかるような気になった私は(それと同時に年齢を重ねた私は)、今では川端美学の頂点にあるのは、『雪国』だと確信している。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という冒頭の一文は、文学に明るくない人でさえ、一度はどこかで聞いたことがあると感じるのかもしれない。
 今日は私の「悲劇のコレクション」に、川端康成の最高傑作としばしば称される『雪国』を加え、その美について考えてみたい。
 
                         ※

美の抽出・純白に映える炎の色

 川端康成は、この小説の読者がどのページのいかなる場面にいようとも、背景に雪国の底冷えのする重く閉ざされた静寂、その冷たさにおいて透明な美しさが存在することを忘れさせない。
 雪にあまり縁の無い土地で生まれ育った私は、この小説を読む間ずっと、冷たく澄み切った、弛緩のない空気を実際に肌で感じているような思いがした。冒頭の一文から徐々に導かれる雪国の景色によって、物語の美が成立するために必要な舞台が、読者の胸におのずと設定されるのだ。

 東京に妻子のある舞踏研究家(島村)が雪国の温泉宿で、土地の芸者である駒子と情事を重ねる。島村は自分に向けられた駒子の愛情を「徒労」と感じながらも、その切羽詰った思いの美しさに惹かれる。それと同時に、作品の冒頭の場面でたまたま列車の向かいの席に乗り合わせた葉子という女性(後に駒子を通じて島村は彼女と知り合うことになる)にも、次第に心を傾けてゆくのだった。

 川端康成自身が、「どこで切ってもいいような作品である」と述べているように、『雪国』には上に記した以上に特筆すべき物語性は無い。劇的な展開を期待して失望する人も中にはいるのかもしれないが、この小説はストーリーの巧みさで、読者のページをめくる手を急がせるものではない。
 それとはむしろ逆に、雪国の冷たく清らかな舞台を背景に、まばゆいまでに輝く情念の色彩に触れ、読者は何度も立ち止まり、時には留まり、せつなく流れ去る瞬間の美に心をふるわせる。
 この物語は、ままならぬ現実からの「美の抽出」という一点に成否を賭けて書かれたものであり、川端康成は見事な構成で、美の極致に迫り、その試みに成功している。『雪国』が極めて芸術性の高い小説と言われる所以はそこにある。

 田舎芸者の真剣な恋と絶望感という、どこにでもありそうな話が、『雪国』では美的な芸術作品にまで昇華される。冷たく弛緩の無い、はりつめた空気の厳しさが、そして読者の心の視界を覆う雪国の清らかな白さが、この物語を単なる情痴話に終わらせないための重要な役割を担う。
 読者が心に描く冷たい白さと、そこに映える炎の色。川端は物語のはじめに、車窓に映る葉子の顔に野山のかがり火が灯り、それが雪景色と二重写しになって流れゆく様を描写する。そして物語の主調音となる駒子の情熱の炎。また物語の最後では、火事になった繭蔵の二階から落ちてくる葉子の姿。こうした雪と火のイメージが全編をつらぬく。
 その配色のバランスに、作家は美意識を結集する。純白に映える様々な炎の色彩を「見つめる」ことで、読者は文学的というよりはむしろ絵画的な美しさを『雪国』に感じるのかもしれない。

 私の友人のある女の子は、『雪国』を読んで、「駒子のむなしい愛情や徒労が、あなたが言うようにどうやって美に結びつくのかわからない。あたしは駒子のようにはなりたくない」と、実に深刻な口調で言ったものだ。
 なるほど、もちろん私も駒子のような悲恋を自分の人生に望みはしない。しかし、悲恋や徒労が美の資格を持ち得ないとは、決して考えないだろう。
 実りあるものだけが、美しいのではない。私たちの人生には、むなしく、そして切なく過ぎ行く時がどれだけあるのかはわからないが、苦い記憶の中にも、空虚と思える時の流れの中にも、真剣に生き、利害を超えて何かを求める純粋な瞬間が必ず在り、そこには徒労やむなしさを超越した美が存在する。
 実りあるものと、満たされることのないものがある。しかし「美」は、そんな分け隔てを問題にしない。もしもこうした定義が、個々の人間の、ただその苦悩の切実さをとらえる感受性だけによるのだとしても。
  
 私にとって、川端美学の焦点はここにある。『雪国』は、せつなく輝く瞬間の美の姿を提示するだけで、実利的で実際的などんな評価も求めはしない。
 そこに、美が美である所以、そして厳しさがある。 

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2006/10/30

薔薇と海賊(三島由紀夫著)

 三島由紀夫の小説は苦手でも、「彼の戯曲は好きだ」と感じる人は少なくない。有名なところでは『鹿鳴館』や『サド侯爵夫人』など、今日まで変わらぬ人気を博している。
 劇的な効果を知り尽くした作家は、人口の極致とも言うべく巧みな構成で、観客の心に迫る空間を創造する。三島の作品が語られるとき、「人工」という言葉がよく使われるが、三島作品につきまとうその人工性は、小説の中でより、「劇」の中でこそ、その真価を発揮するのかもしれない。
 我々は小説に要求するリアリティーを、劇の中に求めはしない。舞台という、物理的にも閉ざされた空間の中では、物語は手際よく語られなければならないし、本筋を外れた、洒落た脇道などが許される範囲は、小説に比べてずっと少ないはずである。そして例えば、劇中の人物が、当の話し相手の方を見ず、観客席に向けて長いセリフを語るようなとき、その大袈裟な口調や身振りに観客が滑稽な感じを抱かないのは、「舞台」という特殊な環境をあらかじめ理解しているからだ。現実の対話ではありえない光景も、舞台の上では許容される。むしろ私たちはその虚構を通じて、現実との接触を試みようとしているのかもしれない。そしてこのような前提があるならば、私たちが舞台に望むのは、巧みに構成された出来の良い虚構、ということになるだろう。
 こうした条件を考えるなら、明晰で、ウイットに富み、いささか現実離れした三島の美学がより生き生きと輝くのは、戯曲の世界においてだと言っても、あながち間違いではあるまい。

 そんな三島由紀夫の数多い戯曲の中で、今日私が『薔薇と海賊』を話題にするのは、特にこの作品がお気に入りだからというのではない。三島が自決の一ヶ月前に上演されたこの芝居を観て、涙を流したということが、ずっと私の心に引っかかっていた。しかも舞台稽古を見学していたときにも、彼の目から涙があふれたのだという。それはいずれも、俳優があるセリフを言う場面であった。
 すでに死を決意し、それを目前にした作家が、この時何をそのセリフの中に、かつて自分が書いたセリフの中に、見たのだろうか。
 そんなせつない思いで、時折私はこの戯曲を読み返すことがある。私にとってこの作品は、「劇」としての出来栄えや、その目指すところのものなどは、ほとんどどうでもよかった。
 私がこの作品に触れる時、そこには、実際に綴られた劇の内容があるのではない。私が勝手に曲解した「受けとり方」があるだけだ。その意味でこの記事は、『薔薇と海賊』の<正しい>紹介文にはなり得ない。(この劇の持つ優れた象徴性が、すでに適切な言葉で多くの人たちによって語られている今、私などがそこに加わわろうとして背伸びする必要もなかろう)。
 彼の涙を前提にこの作品を読む時、そこに何を感じるのか。それだけに焦点を当てて、私はひとりよがりな、そしておそらくは多くの点で間違った(劇の真正な内容にそぐわない)事柄を綴ることになるのだろう。  
 

                          ※

薔薇と海賊

「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」

 童話作家の楓(かえで)阿里子を訪ねてきたのは、30歳になるイノセントの青年、帝一だった。彼は、自分を阿里子の童話の中の主人公ユーカリ少年だと信じている。
 不思議な星からやって来て、密林に落ちたユーカリ少年。犬のマフマフを従えて、ユーカリ少年は海を目指し、恐ろしいジャングルをかきわけて進む。海にたどり着いたところで、マフマフが海賊たちに捕らえられる。ユーカリ少年は薔薇の短剣で海賊たちを退治し、マフマフを取り戻す。海賊たちを船底に押し込めて、船の帆をあげ、自分が王様となる王国に向けて航海を始める。
 そんな御伽噺の世界で生きる稀な青年の存在に、阿里子の心が呼応する。それは天性の無垢と、意志によって築き上げた純潔との組み合わせだった。
 阿里子は結婚しており、夫の重政との間に千恵子という子供をもうけている。しかしこの結婚や妊娠は、女学生だった阿里子を重政が公園の裏山で無理矢理に奪ったことに端を発する。
 翌日、犯行現場を見に行った重政は、その同じ場所で彼が来るのを待っていた阿里子の姿を認めて驚く。阿里子の顔は蒼白で、重政はまるで幽霊を見たように思った。そしてまた、このような聖(きよ)らかな女の顔をかつて見たことがないと、重政は感嘆し、それ以来、阿里子に永遠の恋をするのだった。純潔を失ってはじめてその尊さを知った阿里子は、自分を守るために、重政と結婚する。結婚当夜、阿里子はきっぱりと重政を拒み、その後も二人の間に肉の交わりはなかった。重政が女をつくろうと、阿里子はまったく意に介さず、ひたすら童話の創作に情熱を傾けるのだった。一度の行為によって誕生した娘の千恵子には、彼女の童話の中のニッケル姫と同じ服装をさせるという徹底ぶりで。
 阿里子にとって、自分の童話に全身浸かりきった帝一は拒めるはずもない存在だった。大人の年齢と、完全な純潔とを同時に持つ奇蹟的な青年と、童話を書き、しかし決して夢は見ずに、意志によって壊れた純潔を守り抜く女。
 たちまちにして二人は求め合い、童話の筋書きを頼りに関係を築く。帝一の澄んだ目を見つめていると、阿里子は自分が書いた童話の出来事がどれも本当のことのように思えてくるのだった。帝一は率直に力強く、正面切って彼女の創造した世界を評価する。むしろ童話の作者はこの無垢な青年のほうではないかと感じられるほどに彼は熱心に語り、阿里子は彼を通じて自らの童話の姿を知らされる。
 帝一は阿里子に言う。「僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいているあの水平線まで・・・・・・。僕と一緒に行けば大丈夫なんだ。いつまでも僕が先生のそばにいさえすれば・・・・・・。」

 しかし、帝一は童話のユーカリ少年のように勇敢ではなかった。彼にはユーカリ少年の持つ「薔薇の短剣」がなかったからだ。反対に帝一はこの「薔薇の短剣」に脅かされていた。それというのも、帝一の世話をする額間という名の狡猾な後見人が、帝一のこの童話への傾倒を利用して、物語に出てくるのとそっくりな薔薇の短剣を作り、それを帝一に与えずに自分が所持することにより、帝一を思うままにコントロールしていたからだ。童話の中で薔薇の短剣の威力を知る帝一は、その美しい剣を振りかざして命令する額間に逆らうことができなかった。
 ところがある時、この薔薇の短剣が帝一のものになる。彼は歓喜し、自分がいよいよ王国の王になることを確信する。王国までの航海を阿里子に語って聞かせる。彼は地球ばかりではなく、あらゆる星の王様になるのだと言う。しかしこうして得た勇気も、再び「薔薇の短剣」を失うことにより、彼の中からすっかり抜き取られるのだった。

 帝一「船の帆は、でも破けちゃった。帆柱はもう折れちゃったんだ」
 楓 「その帆を繕うのよ。私は女よ。裁縫はうまいわ」
 帝一「だめだ。もう帆はもとに戻らないんだ」
 楓 「でも空には新しい風が光っているわ。手でつかむのよ」
 帝一「(手をのばして空気をつかむ)だめだ、指の間から風が逃げちゃう」
 楓 「でも太陽の光りが私たちを助けるわ」
 帝一「日はもう沈んじゃった」
 楓 「月がのぼるわ」
 帝一「月は冷たい」
 楓 「それから波が、ねえ、帝一さん、お魚たちが私たちの船を運ぶんだわ」
 帝一「お魚の背中は弱いよ」
 楓 「でも百万のお魚の青い背中が私たちの船を運んで行ってよ」
 帝一「阿里子・・・・・・」
 楓 「え?」
 帝一「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」


                         ※

 マフマフを従えた密林の冒険。海とたくさんの金貨と短剣の油と髑髏と革の帯と女奴隷の匂いがする海賊たち。彫金の薔薇を鞘につけ、柄にルビーを嵌め込んだ美しい薔薇の短剣。帆をあげる海賊船。珊瑚礁の上に眠っている小さな風たちが集まって、海賊船の帆をふくらます。風にふくらむ帆を、朝日が金色に染める。王国に向かう航海のはじまり。
 帝一は、そんな物語の中で生きているはずだった。けれども彼が、「僕はひとつだけ嘘をついていたんだよ。王国なんてなかったんだよ」と言い切るとき、それまで帝一を支えていた世界は論理的に崩れ去る。それは同じく、帝一と阿里子を結ぶ絆の崩壊でもある。
 人生の虚妄は、実際的な人の目から見た場合、単にその字のごとくむなしさをしか意味しないのかもしれない。しかし虚妄は機会さえあれば生き延びる。そして多くの場合、人を生かす力すら持っている。
 この劇の場合、帝一という存在、あるいは帝一と阿里子との関係を成り立たせていた虚妄が、根底から否定される。けれども、実はそうではないことに気づくとき、私はいっそう深い悲しみを感じずにはいられないのだ。
 つまり、それは単なる虚妄ではなく、寄って立つ足場のないことをあらかじめ認識された虚妄であるということだ。王国なんてない、という認識のもとに、帝一が王国を夢見た以上、さめざめとその現実を知らされる時でも、彼の世界はもはや崩壊しようがないのだ。

 死をすでに決意していた三島は、「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」というセリフに、何を感じ、涙を流したのか。
 ある人は、彼がそれまで住んでいた豪奢な御殿が明るい光に照らされたときに、朽木の建築だったことが明るみになり、人生の虚妄が消え行くことを知ったからだという。また、「自分のひとつだけの嘘」が、その時にわかったからだと言う。
 しかし私はそうは考えない。彼は朽木の建築に涙を流しはしないし、自分の嘘に気づいて感じ入ることはない。なぜなら、彼は朽木を使って絢爛豪華な建物を構築する精神の豊穣さを持っていた。そしてその嘘は、彼の認識の範疇にあるものだった。
 彼がいた場所は、真実を知って崩壊する虚妄の世界ではなく、あらかじめ、虚妄を虚妄と認識した上で築いた悲しい王国の中だった。そのことは明確に区別されなければならないし、そうでなければ、彼の涙にも、その死にも、近づくことは許されないだろう。

 直接の関係はないのかもしれないが、三島由紀夫は『重症者の凶器』という評論の中で、次のような文章を書いている。
 
「盗人にも三分の理ということは、盗人が七分の背理を三分の理で覆おうとする切実な努力を、つまりはじめから十分の理を持っている人間の与り知らない哀切な努力を意味している。それはまた、秩序への、倫理への、平静への、盗人のたけだけしい哀切な憧れを意味する」
 
『薔薇と海賊』を彼の涙を前提に読み返した時、なぜか私の脳裏にこの文章が浮かんだのだった。

サイト内の三島由紀夫に関する記事:金閣寺(美的なもの・2005年11月25日)

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2006/10/07

ワーグナーの毒

トリスタン・イズー物語(ベディエ編)

 『トリスタン・イズー物語』は、ケルト人の伝説を起源とする、中世ヨーロッパに広く流布した恋物語をジョセフ・ペディエの偉業が今日によみがえらせたものである。愛の秘薬を誤って飲み交わし、永遠に求め合う男女の悲恋が描かれている。

 コーンウォールの地を治めるマルク王のもとに、アイルランドより王の妃となるイズーを連れ帰る役目を果たしていた勇敢な騎士トリスタン。トリスタンはマルク王の甥であり、王の信頼厚く、この上なく愛されていた。
 この婚礼のために、イズーの母はイズーの待女であるブランジャンに密かに「葡萄酒」を預ける。婚礼の夜にマルク王とイズーがこの葡萄酒を二人きりで飲み干すように給仕することを命ずるのだった。この「葡萄酒」は、母が秘法と魔術によってつくり上げた愛の秘薬で、この秘薬を共に味わった者は、身も心もひとつになり、未来永劫に愛し合うことになるのだという。イズーの母は、娘の結婚が失敗に終わることのないように、この秘薬を生み出したのだった。
 アイルランドからコーンウォールへと向かう船旅の途中、あろうことか王の甥トリスタンとイズーがそれとは知らずに、この秘薬を共に飲み干してしまったのだった。
 その瞬間に、二人は恍惚の中で互いに愛し合っていた。自分を信頼し、こよなく愛してくれるマルク王への裏切りを思い、トリスタンは絶望する。イズーは王のものであり、自分は決してイズーを愛してはならぬのだと彼は自分に言い聞かせる。しかしトリスタンは全身全霊でイズーを恋し、求める自分をどうすることもできなかった。そして同様に、イズーのほうも、トリスタンを心の中から追い出そうとすることに失敗し続けるのだった。
 秘薬を飲み交わして三日が過ぎた時、トリスタンは涙を浮かべたイズーにたずねる。「愛しい人よ、あなたを苦しめるものは?」と。
 イズーは答える。「あなたをいとおしいと思う私の心です」。

 イズーのこの返答で、トリスタンは彼女の唇に、自分の唇を重ね合わせる。美しい二人の肉体は強く結ばれ、その恍惚の中で、欲求が波打ち、生命が輝きはじめるのだった。
 トリスタンは、「さらば、死よ、きたれ!」と言った。彼は、掟を超え、恩義に背き、すべてを超越して、この道ならぬ永遠の愛に身を滅ぼすことを覚悟したのだった。

 マルク王の妃となったイズー。王宮の中にあって王にかしずくトリスタン。この二人は偽りの仮面を被って、いつも一緒にいることができた。はじめの頃は誰も二人の仲を疑る者はなかったが、恋に酔いしれる二人には、互いに求め合う心から、その思いを隠し切ることができなかった。彼らの愛欲の疼きは、いたるところで露呈し、それに気づかぬ者は、もはやこの二人を愛し、信頼するマルク王ばかりとなっていた。
 騎士トリスタンの武勇を妬む四人の悪者が、トリスタンを追放するために、この道ならぬ恋に目をつけて、様々なたくらみを企てる。彼らはマルク王に二人の不倫を告げ、証拠を挙げて王の怒りを引き起こす。これにより遠く離れ離れになった二人であったが、どんなに引き離されても、どのような苦汁を舐めても、互いの魂は、そして肉体は忍び寄り、ついには死の抱擁によって、天上へと運ばれてゆくのである・・・・。

                         ※ 

 『トリスタン・イズー物語』は、ヨーロッパにおいては「情熱恋愛の神話」として、人々の心に多大な影響を与えたものとして知られ、そして愛されている。それはとりもなおさず、人々の心の底にある理想が、あらゆる掟や障害を超えたところになお成立する<永遠の愛>に向けられていたからなのだろう。
 この書物を評したガストン・パリスはこう述べている。「人生を平凡もしくは退屈な絶望におとしいれることなくして、この理想を取り除くことはできない」と。
 すなわち、それが私たちの飽くなき恋の理想の姿であったとしても、平凡や退屈を退けて、欲望を貫くとき、そこには各人の人生を破滅に追いやる危険な毒汁が満ちていることを指摘しているのだ。
 そしてこの物語の「毒」の甘美に心を奪われた者には、さらなる魔術が用意されていることを言っておかなければならない。
 現代社会に生きる私たちには、もはやこの物語で当たり前のように語られた秘法や秘薬は存在しない。だが、そのかわりに、一人の天才作曲家が、この秘薬に似た魔術を私たちに提供してくれていることを知ったならば・・・・。

 それは、ワーグナー作曲の『トリスタンとイゾルデ』である。(イゾルデとは、フランス語におけるイズーのドイツ語読みで、両者は同一の人物をあらわしている)。
 初めてワーグナーのこの作品に触れたとき、言葉にできないほどの強い衝撃を受けたものだ。とりわけ前奏曲と「愛の死」は、官能の昂ぶり、めくるめく愉悦感、絶対の愛の神秘、ほとんど死とすれすれの恍惚、こうした魅惑に満ちた危険な毒と、最上の美を敷き詰めた魔術的な旋律によって、聴く者の心を虜にする。
 
 ひとたびこのワーグナーの「毒」を喉元に流し込んだ者は、愛について考える時、その至上の恍惚を、死をもいとわぬ絆を、究極の愉悦と、そして苦悩とを、自らの凡庸な愛に照らし合わせることを、心のどこかで強いられるだろう。
 死を見据えた至福の官能に高揚し、打ち震える心を、この音楽によって体感するとき、ワーグナーの「毒」が、もはや消えぬ染みのように、胸の奥深くに刻み込まれるからだ。

 
 

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2006/08/27

怖るべき子供たち(ジャン・コクトー著)

 君の幸福には仕掛けがある、不幸が君に仕掛けする。

 先日何かの折にふとこのフレーズを思い出し、久しぶりにコクトーの詩集を手に取った。『オペラ』に収められた<軽い牧場>の中の、私が愛する一行だ。
 生まれながらの詩人であるコクトーは、十歳に満たぬ頃からその才能を認められ、パリ中の注目を浴びた。後に彼は「芸術の軽業師」といわれたように、小説、演劇、バレイ、デッサン、評論、映画と、その多彩ぶりを発揮して、アートのジャンルを渡り歩いた。
 彼は人々の心を大いに魅了した芸術家だが、その軽業師的な多彩ぶりに彼の軽薄さを見てとる人々には嫌われもしたようだ。楽譜も読めないのに音楽に手を出し、いっぱしの音楽家のように振舞う彼に、我慢ならない人たちもいただろう。デッサンにしても、あるいは映画にしても同様のことが言えるのだが、コクトー自身はきちんとそのことをわかっており、事実、彼は多岐のジャンルにおける自らの作品に、「詩」という冠をかぶせることにより、その立場を統一して表明している。
 例えば、小説なら poesie de roman (小説の詩)であり、映画なら poesie de cinema (映画の詩)というふうに、その形式が何であれ、彼という詩人が生み出す「詩」の表現であることを強調しているのだ。

 そうしたジャン・コクトーの様々な芸術表現の中から、今日私は『怖るべき子供たち』という小説を<悲劇のコレクション>に加えることにした。
 小説といっても、前述のように、これは小説という形式を借りた彼の「詩」である。それは次のようなことからも説明できる。すなわち、多くの文学作品が、読者に説明し、そして読者を説得しようと試み、ついには読者をその世界に取り込んでしまうことを目的としているのに対して、コクトーの「詩小説」は、また、あらゆる「詩」は、説得を目指さない、事象や感受性を暗示した、象徴的な圧縮の世界であるからだ。
 したがって、この小説を読むには、詩を読むのと同様の困難さが、つきまとうのかもしれない。
 しかし、このフランスの天才詩人ジャン・コクトーをまだ知らないという人にとっては、彼のことを「好きかどうか」が、この『怖るべき子供たち』で判断できるのではないかと、私には思われる。
 というのも、初期の作品から後期に至るまで、コクトーが表現し、主張してきたものは一貫しており、ほとんど変わることのない彼独自の詩的感性に基づくものだからだ。そして、その中でもとりわけ、後の芸術家たちに多大なるインスピレーションをもたらしたこの作品は、「コクトー愛」をはかる、ひとつの有益な目安になってくれるのではないかと思う。

  
怖るべき子供たち

 病弱で顔色の蒼白い少年ポールは、学校の大将である乱暴者の男の子ダルジュロを愛していた。その愛は、ただ途方に暮れるしかない、肉欲を伴わない、漠然とした、けれども、激しく清らかな愛だった。しかし、英雄ダルジュロにとって、ポールはとるに足らない存在であり、ダルジュロはポールの弱々しさを軽蔑していた。
 ある冬の日の下校時、通学路にあたる広場で、雪合戦が行われた。ポールはこの遊びに参加しているはずのダルジュロの姿を探し求めて駆け出した。ダルジュロに加勢して、彼の役に立ちたかったからである。
 だが、ダルジュロはポールの助けなど必要としない。ダルジュロが投げた雪球がポールの胸の真ん中に命中し、この蒼白い少年は口から血を流しながら、冷たい雪の上に倒れる。
 
 負傷したポールを家に連れ帰ってくれたのはジェロームという少年で、ポールがダルジュロを愛するように、ジェロームはポールの弱さゆえに、彼を愛した。
 ポールの住むモンマルトルの家には、病身で寝たきりの母と姉のエリザベートがいた。ほとんど死を待つばかりの母は、この二人の姉弟の生活に介入することがない。
 二人が共に暮らす「部屋」には、外界からは隔たった二人だけの秩序、あるいは秘儀ともいうべきものが存在し、そこで二人はそれぞれの空想にふけった(放心した夢想状態に身を置くことを、彼らは「出かける」と表現した)。また、彼らだけにわかる厳密な基準により選ばれた宝物を収めた引き出しには、万年筆の鞘やアスピリンのケースなど、人の目にはガラクタにしか映らない数々の品物が、彼らにとっては途方もなく大切な宝物として、この閉ざされた部屋の中では存在感を放つのだった。 
 やがて母親の死を迎え、この「部屋」はより複雑な空気に歪められながら、子供たちの抱く様々な空想の装飾をほどこしていった。二人は自分だけの部屋を持ちたいとそれぞれに思いながらも(それは可能なことであったが)、二人の部屋を離れることはなかった。

 この空間に出入りが許されていたのは、先ほどのポールの友ジェロームと、エリザベートの新たな友人であるアガートという少女だけだった。
 ポールを愛していたジェロームは、次第にその恋の対象をエリザベートへと変えてゆき、彼はもうエリザベートなしではいられないまでになっていた。けれどもジェロームはエリザベートを巫女か聖女のように感じていたから、自分が彼女を手に入れるなどという大それた考えを決して抱きはしなかった。
 また、ポールは、新たに出現したアガートを密かに愛するようになるが、それはアガートが、まるでダルジュロの妹といっても不思議がないほどに、かつて彼の心を支配した粗野な少年に顔立ちが似ていたからだった。そしてアガートも、ポールに思いを寄せていたのだが、彼女にはポールが自分を馬鹿にしているようにしか見えなかったのだった。
 だが、ポールとアガートは、それぞれに自分の思いを相手に打ち明けようとする時を迎える。それは、姉弟の「部屋」が崩壊し、新たな秩序の誕生をうながすに違いなかった。そのことを知ったエリザベートは、嘘によってこの二人を引き離す。
 失意のポールは、彼の英雄であったダルジュロから贈られたこぶしのような毒薬の黒い球(かつて彼はダルジュロから同じような白い雪球の一撃を胸に受けたわけだが)を口に含み、生死の境をさまようのだった。
 アガートが駆けつけた時、エリザベートの嘘が明るみになる。悪意によって引き離されたことを知った二人はエリザベートを罵倒する。しかし、エリザベートはアガートの腕の中にいるポールの目を見つめることによって、彼らの凡庸な愛の中から弟を取り戻したことを確信したのだった・・・・・。

                         ※

 無秩序そのものに見える怖るべき子供たちの生活の中に、外側からは知りようもない神秘的な法則が存在する。秘儀や宝物、諍いや無目的な生の消耗などに、大人はその片鱗を見るに過ぎない。
 唯一この物語に登場する大人の中で、彼らの生活の雰囲気に溶け込むことができたのは、上記の筋書きには記さなかったが、マリエットという名の、彼らの世話をする年配の女中だけだった。私はこの作品における彼女の存在をとても好ましく感じる。正確に言うならば、このような人物を配することを忘れなかったコクトーの感性を愛しく思うのだ。ポールとエリザベートが旅行に出掛けた折、そのお土産として、盗んだものではない飾りピンをマリエットに贈ったというほんのささいな一行に、この捉えがたい子供たちの内にある純粋な愛情を確認し、私の心はひととき幸福を感じたものだ。
 『怖るべき子供たち』の翻訳者でもある画家の東郷青児氏は、この作品について「日陰の植物があお白い本能のままに、ひょろひょろと伸びてゆく感じ」という、まさに言い得て妙の言葉を記している。また、画家である氏は、この小説の空間に不思議と色彩を感じないということだが、色の構成とその効果を知り尽くした人物の言だけに、私のようなその分野に疎い者には大変興味深い感想だ。
 同性愛、秘儀、宝物、盗み、空想、神秘、近親相姦と、蒼白く未成熟な神経が剥き出しにされたこの詩的な閉鎖的空間で、狂気も正気もいっしょくたになり、いかなる誇りも、目的も持たない感受性の発露が、読者の心にコクトーの世界を刻む。
 私がそれを確かに知ることができるのは、例えば三島由紀夫の『仮面の告白』に登場する粗野で肉体的魅力にあふれたあの近江少年が、ほとんどダルジュロであり、近江を愛する貧弱な少年は、それが三島由紀夫その人であったとしても、コクトーと三島の心理的な関係を知る者なら、そこにポールの影を見ずにはいられないだろうからだ。
 また、映画では、フランスの女流監督ヴィルジニー・テヴネの秀作『エリザとエリック(原題:火遊び)』が、ストーリーの細部は異なるにせよ、コクトーの作品の映像化に成功した稀な例であることは、『怖るべき子供たち』を知る者には、無条件に理解できるだろう。 
 

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2006/08/11

思春期の心を支える音楽

 だいぶ前から気になっていて、なかなか観る機会に恵まれなかった映画『リリイ・シュシュのすべて』(2001年、岩井俊二監督)を、今日偶然にも友人の家で鑑賞した。
 この映画は、とある地方都市で暮らす中学生たちの歪んだ日常と、その中に潜む「ピュア」な心情を描いたものとして、かつて話題になった作品である。

 中学2年生の雄一は、学校ではいじめを受け、家では母の再婚によって居場所をなくす。彼の心を救うものは「リリィ・シュシュ」という名のミュージシャンが奏でる世界。彼と同様に、リリィ・シュシュに傾倒する若者たちが集うインターネットのファンサイトだけが、自分の本当の居場所だと彼は感じるようになる。そして、インターネットという媒体を通じて、一見つながれたと思われた、ある人間関係が、このケースでは、「現実」には何の変化ももたらさなかったという空虚な事実を、映画を観る者は知らされることになる・・・・・

 岩井俊二監督の生み出す詩的な映像は、あまりにも幻想的で、美しく、現実離れした様相をかもし出す。作中で描かれた泥臭い悲惨な事件も、なにかしら実体のないもののように感じられる。そして監督がこれをむしろ、思春期の「リアル」という視点で描いたのならば、その表現方法は的を射ていると、私には思われる。
 ある種の音楽に心酔し、いわば幻想に片足をつっこんだ状況で生き抜く思春期、幻想という媒体なしには現実と触れ合うことができない傷つきやすい青春期の視点を、その時期をすでに終えてここに在る私に、思い出させてくれたのだから。
 それは、この完成しきることのない物語が、ドビュッシーをはじめ、いくつかの美しい旋律の助けを借りて、観る者の心に陰影を与えたことに等しい。言い換えれば、こうした音楽の「助け」がなければ、この作品はもっとちがった評価になっただろう。
 そうした音楽の力が、ここではクローズアップされる。心酔する音楽が自らのすべてと言えた(あるいはそう思うことができた)、懐かしく危うい思春期に、私のような年配は連れ戻され、また、リアルタイムでその時を生きる若者は、共感を抱くのだろう。両者とも、いささか芸術的に作られすぎたこの映画の巧みな象徴性や、美しすぎる映像に、違和感を覚えながら・・・・。

 映画のレビュー書きはどちらかというと不得手な分野に属するため、『リリイ・シュシュのすべて』に興味のある方は、映画紹介のサイトなどで探してみてください。(この映画に対する私の感想を簡潔に述べるとすれば、好きなタイプの作品。しかし、いじめ、盗み、援助交際、レイプ、傷害、殺人といった劇的な要素をこれほどまでに盛り込まなければ、思春期の「リアル」を表現できなかったのだろうかと、疑問に思う)。

 今回の私の記事は、タイトルが示すように、この映画についてというより、この映画によって喚起された思春期の感傷をテーマにしている。しかし言うまでもなく、それは決してすべての人たちの思春期を象徴するものでもなければ、代弁するものでもない。
 この時期に「詩」を書く必要があった人々、あるいはそれに等しい感傷的、感覚的な体験を重ねた人々には、あるいは理解されるのかもしれない、と考えている。

 私の思春期を支えた音楽は、David Sylvian(デヴィッド・シルヴィアン)だった。このイギリスのミュージシャンが生み出す世界が、13歳の私に、現実とは別の次元の詩的空間があることを教えてくれた。彼の音楽は、私に愛を、美を、悲しみを、反抗と服従を、情熱と平静、静寂と魂を、私が本格的にこの人生に乗り出すよりも先に、認識させ、かつ、美的に刻んでくれたのだった。
 Davidゆえに私が得た「心の領域」を、今の私なら「センチメンタルな哲学」と名付けたいところだが、当時はずっと真剣に、Davidに全身をゆだねるような感覚で、彼の奏でる世界に浮遊した。
 それは癒しというより、絶望から美的な視点を得るための厳しい試みであり、苦悩を陶酔に変える詩的な体験の切実な痛みであった。

 思春期の私には、自分が生きる世界の全体像を客観的に捉える力はなく(おそらくそのような意思もなかっただろうが)、ごく限られた空間に自らを閉じ込め、そこで幻想的な幸福や悲しみに酔い、またそれを心の安住の地とした。
 そのような少女(少年)は、多くの場合、自らの言葉(心の表現)を生み出そうとする。感傷的で感動的な言葉を紡ぎ、現実を超越する。音楽はそのために必要不可欠な道具、というよりは、神であるのかもしれない。

 ここで、もう一度冒頭にあげた映画に戻って先を続けたい。この作品では、「リリィ・シュシュ」という名のミュージシャンに心酔する若者たちが、インターネットのサイト上に書き込む言葉の数々を、全編にわたって印象的にちりばめている。
 こうして綴られたダイアローグ、あるいはダイアローグを予期したモノローグの数々を、この映画の画面でつぶさに追ううちに、私には気づいたことがある。
 私の思春期には、こうしたインターネットのサイトはなく(正確には、私は知らず)、見知らぬ誰かと同一の崇拝(興味)の対象について語り合うこともかなわず、ただひとり、胸の内で、ある種の世界を構築するに過ぎなかった。
 その孤独からすると、昨今の環境はとても羨ましい。しかしよく見てみると、そうした大勢の共有の空間で語られる言葉は、私が孤独のうちに紡いだ言葉とさして変わることがない。一人きりであろうと、大勢であろうと、そこに大差はない。なぜなら、私が、そして彼らが、真の創造者(芸術家)ではないからだ。本物の芸術家なら、そうした崇拝の対象を「乗り越えて」、自らの境地を切り拓く強さと才能に恵まれているだろう。
 そうではない私や彼らがつぶやく言葉は、所詮、たかがしれている。
 しかし、そのせつない言葉の数々が必要な時が、私の人生には確実にあったし、あるいはこれからも、あり続けるのかもしれない。

 思春期の私の心を支えたDavid Sylvianの音楽について、わざわざ名前をあげておきながら、その紹介をせずにこの記事を終えることになりそうだ。
 彼ゆえに私が得たものは、今なお私の感受性の柱をなし、年齢を重ねて自分を着飾るコツを知った私の、傍目には見抜けないであろう裸の姿に直結するものがあるからだ。
 思春期ならいざしらず、もう今となっては、私は誰とも彼について語り合おうとは思わない。それほどに私は彼と共に生き、苦悩を詩的な空間で浄化させる術を、彼の力を借りてこの壊れやすい心の中に構築してきた。そして、そのプロセスは、宣伝することのできない、あるいは宣伝する必要のない、私の恥部でもあるからだ。
 大人になった今、Davidは私のものだと、堂々と言い切ることができる。他の誰かのDavidは、私の彼と同一ではないし、その共通項を求めて声をあげなければならないほど、もはや私は孤独に悩まされはしない。
 それはつまり、孤独を受け入れること、そこからすべてをはじめなければならないことを彼ゆえに学んだ教育の成果でもある。
 私のこのような姿勢は『リリィ・シュシュのすべて』という映画の中で、感受性の共感を求めて言葉を発した若者たちの、ある意味では、延長線上の姿であるのかもしれない。
 相変わらず私の心の内で、せつなくむなしい言葉が、精巧な刺繍のように形付けられるのだとしても。
 

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2006/07/26

春の嵐(ヘルマン・ヘッセ著)

 私は先日、この本を買った。同じ本を買うのは、これで何度目だろうか。こうして数え切れないくらい『春の嵐』が私の手元から離れていき、再び私がそれを買い求めることになるのには、理由がある。
 友人や知人から、「何かおすすめの本があったら教えて」と言われるようなとき、私は自分の本棚からチョイスする書物の中に、相手がどんなタイプの人であれ、この本を付け加えて貸し出した。
 こうして手元を離れた書物は、Pepite図書館の貸出票に記され、大抵はそのうち戻ってくるのだが、『春の嵐』だけは、これまで一度も(一度も!)無事に帰還したことがない。
 もともと読書好きな人が、たまたまこの作品をそれまでに読んでいなかったというケースも少なくはない。だがそれはこの際あまり問題ではなく、実はそうでない場合、つまりほとんど読書には縁がなく、たまにあったとしても「この先どうなるの~?!」という手際よい展開の娯楽作品に限られるといった人たちまでもが、『春の嵐』に心を打たれ、「文学」の美しさを知ったという感想を述べてくれる。そしてそのたびに、私は喜んで、この書物を進呈することになるのだった。

                
               春の嵐(原題:ゲルトルート)

 少年時代の他愛ない恋愛遊戯がもたらした事故のため(意中の女の子の気を引くために、雪の谷を橇で滑り降りるという大胆な行為の結果)、クーン少年は足を負傷し、もはや普通に歩くことさえかなわなくなった。
 彼は身体の不具合が、この先得るはずであった様々な幸福から自分を切り離してしまったことを感じる。そして、その心は音楽に救いを求めようとし、次第に彼は音楽の創作の中に、自らの生きがいを見出してゆく。
 やがて、クーンは天才的なオペラ歌手ムオトに出会い、その強烈な個性に尻込みしながらも、彼に惹かれてゆく。同時に、ある音楽会で知り合った紳士の家庭に招待されたクーンは、その家の美しい娘ゲルトルートに、永遠の恋をしたのだった。
 クーンとゲルトルートの間には、落ち着いた信頼と親密さが芽生えた。音楽を愛好するゲルトルートは、彼の作品と彼とを区別せずに、そのどちらをも愛した。二人の間には自然な調和が存在し、互いに理解し合うことができた。けれども、一見穏やかなやさしさに満ちた関係の影で、クーンの心は春の嵐のように、激しくゲルトルートを求めた。
 彼がその気持ちをゲルトルートに告げなかったのは、彼女の態度、細やかな好意や快活さは、恋というよりはむしろ、自分の不具に向けられた同情であると感じたからであり、健康で美しい男を彼女が好きになったならば、こんなに落ち着いた友情関係にそれほど長くとどまってはいられないだろうという、悲しい確信を拭い去ることができなかったからだった。
 そう思うとクーンは、自分の音楽やその他の価値ある一切を失っても、健常者の肉体を欲する気持ちに悩まされるのだった。

 一方、歌手のムオトは、彼の音楽の良き理解者だった。エゴイストで、問題を起こしがちなムオトではあったが、クーンの音楽を認め、彼の出世のために様々な便宜をはかった。
 孤独なクーンにとって、ムオトとの友情は、なくてはならないもののように、彼の人生に深く根をおろしていた。もっとも、ムオトの破天荒で、女たらしな性質や生活はクーンにとって好ましいものではなかったが、彼はどうしてもこのムオトに惹きつけられる自分を感じずにはいられなかったのだ。
 ある時、クーンの創作したオペラ作品をきっかけに、ムオトとゲルトルートが出会う。二人はたちまち愛し合うようになる。クーンは、ムオトに対するゲルトルートの態度の内に、自分との関係では決して見ることのなかったせつない情熱を感じ取り、絶望を感じる。そのうえ、クーンはムオトの性質から、彼が女性を幸福にできる男ではないことを見抜いていたので、ゲルトルートが不幸になるような気がして、一層苦しんだ。
 しかし、誰の目から見ても美しいこの二人の組み合わせに、異議を唱えることなどできなかった。二人の結婚式の祝いに、クーンはオルガン曲を贈った。結婚式には参列しなかったが、彼はこっそりとパイプオルガンの陰から二人の姿を認め、優美におごそかに、夫と並んで祭壇に向かうゲルトルートが、もしも体の曲がった、歩行も不確かな自分を連れ立っていたなら、こうも美しく輝きはしなかっただろうと思うのだった。

 ゲルトルートを失い、一度は死を決意したクーンであったが、偶然の諸事情から、生き続けることを選択する。後年、ムオトと死別したゲルトルートに向き合い、彼の心は昔の情熱を取り戻そうとする瞬間もないではなかった。しかし、彼はもはやそれぞれの人生が訂正しようもないことを知っていた。
 かつてムオトがクーンに言って聞かせた言葉がある。「人は年をとると、青春時代より満足している」。
 クーンはムオトのその言葉を正しいと感じる。なぜなら、ゲルトルートに対するクーンの愛は、かつての激しい欲望をくぐり抜け、今は清純で、静かで、より確かな音色を奏でるようになったのだから・・・・・・。

                         ※

 『春の嵐』は、1910年、ヘルマン・ヘッセが33歳の時に著した小説である。幸福の真の意義を問う文学として、今日なお世界中の文学ファンの心をとらえてやまぬ秀作である。
 いつものように、私は雑なあらすじを記したが、もしも興味を持たれる方があるならば、この作品を読んでいただきたいと思う。
 この種の文学作品は、ストーリーが重要なのではない。こうした筋書きの中に、作家が丹念に、そして繊細に書き込んだもの、つまり、心を砕くほどの悲しみ、孤独な感受性や思想や幸福を受け取り、感じ入ることが、読書の目的となるはずである。その意味でも、ヘルマン・ヘッセがこの作品で示した感動的な筆致を、是非味わっていただきたい。

 私はヘッセの小説はほとんど読んでいるが、最も心を打たれたのは、多くの人々と同様に、この『春の嵐』だった。
 自分に与えられた条件、ともすれば孤独と絶望に埋没しかねない人生の中に、自分なりの光明を見出し、悲運を超えたところにある人生の幸福を見つめようとする主人公の姿勢に、私はそれまでに感じたことがない「清らかな」感動を覚えたのだった。
 この物語では、身体の不具というハンデが主人公の悲劇の基盤をなしている。だがしかし、それは必ずしも「身体の不具」という具体的なものにとどまらず、ひとつの象徴として、様々な人生を生きる読者の心に抽象的に、かつ個別的な影を投げかける。
 なぜなら、誰もがとは言わないが、多くの人は、どのような条件の下であろうと、人生の幸福や享楽を十全に与えられるという「幸福者」の資格が自分に欠けることを自覚しているからだ。作者のヘッセは、それを最もわかりやすい「身体の不具」に据えて、本題である「魂の幸福」の意義を探求する物語を生み出したのだと、私は感じている。
 私の感覚が正しいならば、『春の嵐』は、ひとりの身体障害者が、自分の条件に合致した幸福を見出すまでの遍歴を綴った物語にとどまるものではない。
 「身体の不具」と「その他の人生上の不具」との間には、とりたてて線引きしなければならない違いはない。そうでなければ、これほど世界中の人々が、この物語に自分の人生を重ね合わせ、心を揺さぶられることはなかっただろう。

  『春の嵐』 1910年 ヘルマン・ヘッセ著(ノーベル文学賞受賞)

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2006/07/01

人魚姫(アンデルセン著)

悲しい人生に対する態度

 アンデルセン童話の中で、とりわけ私はこの物語が好きだ。報われぬ恋に命を賭けて、海の泡と化す人魚姫の姿ほど、悲劇の美にふさわしいものはない。

_9112154  地上の王子に恋をした人魚姫は、魔女の力を借りて人間の脚を得る。が、その代償として持ち前の美しい声を失わなければならなかった。その上、歩くたびに鋭いナイフで刺されるような痛みを感じなければならないだろうと、魔女は予告した。
 人間の姿となった人魚姫は、王子のもとへ行く。人魚姫をたいそう気に入った王子は、いつも人魚姫を自分のそばに寄り添わせ、「かわいい捨て子さん」と呼びかけて、子供をかわいがるようにして人魚姫を愛したのだった。
 人魚姫のかわいらしい歩き方や、軽やかな踊りに、皆が感嘆する一方で、人魚姫は魔女が言ったような激痛に耐え忍ばなければならなかった。けれども王子のそばにいられる幸福は、そんな痛みを易々と超えるものだった。
 王子はこよなく人魚姫を慈しんだが、それは恋愛の対象としてではなかった。やがて王子の心を奪う王女が現れ、二人は愛し合うようになる。
 王子と結婚しなければ、人間の魂を得ることができず、死ぬ運命にある人魚姫にとって、愛する王子と、隣国の美しい王女の結婚は、王子を永遠に失うばかりか、自らの命の終わりを意味するものだった。
 二人の婚礼の夜、人魚姫はこれを最後と華麗に舞い続ける。この美しい舞踏に、ただひたすら人魚姫は、家族を捨て、声を捨て、すべてを捨て去って、命を賭けて求めた王子への愛をこめたのだった。

 婚礼の夜が過ぎ、朝焼けが訪れると、人魚姫は死ななければならない。しかしそれを免れるために、唯一の手段が残されていた。魔女からもらったナイフで王子を殺めるなら、人魚姫は再び人魚となって、生き長らえることができるのだ。
 人魚姫は眠る王子の枕元に立ち、ナイフを見つめた。王子が寝言で花嫁の名前を呼んだ。人魚姫の手の中で一瞬ナイフがふるえる。けれども彼女は波間に向けてナイフを投げ捨て、最後に王子を見つめ、静かに海に身を投げた。

 私が悲劇を愛するようになったのは、この物語ゆえだったのかもしれない。子供の頃「人魚姫」を読んで流した涙は、この物語を単に「かわいそう」だと感じたからではなかった。なぜか、今でも私はそんな大昔の自分の感受性を鮮明に思い出すことができる。
 自らの敗北を受け入れ、絶望と、その愛の深さを自覚しながら、海に身を投げる人魚姫の、悲しくいさぎよい姿に、子供の私は真の愛情の「美」を感じとったのだった。
 人魚姫は私にとって、かわいそうな悲劇の主人公ではなかった。自分の利益を優先し、計算高く振舞う大方の(私自身もそれに含まれるのだとしても)ケチ臭い人間とは違い、すべてを捨て、すべてに抗って、命を賭けてひとりの存在を愛し、自分の敗北を「認め」、その愛する存在の幸福を願い、ひっそりと退く姿は、あまりに悲しい、しかし凛々しく美的な敗者の輝きだった。

 「人魚姫」のディズニー版「リトルマーメイド」では、この美しい悲劇が、ハッピーエンドの物語に修正されている。そして、今ではむしろこちらのほうがポピュラーだろう。子供たちに「夢と希望」を与えるために、この物語が書きかえられたのだとしたら、そのような判断は必ずしも正しいとは言えないのではないか。
 昨年の11月にこのブログに載せた「フランダースの犬」の中で私が強調したのは、どんな努力にもかかわらず、夢や希望が叶わぬ現実に直面し、主人公のネロのように、ぎりぎりの苦しみの中で生きなければならなかったとしても、真の善良さ、愛ややさしさは、幸福という後ろ盾のないところでも芽生え、生き長らえるということだった。
 「フランダースの犬」同様、「人魚姫」もそうだが、苦悩の極限にあって、なお貫かれる愛情ややさしさが、こうした物語のむなしさを支える。そこには利害や駆け引きを超えた、「浄化された苦しみの美」があり、少なくとも私の子供時代に関して言えば、そうした物語により、苦悩に直面した時に自分がとる態度がどうであるべきなのかを、感動の涙とともに胸に刻むことができたのだ。

 もちろん、ディズニー・アニメーションの愛と夢に満ちた物語を否定しようというのではない。「夢はきっと叶う」という希望は誰にとっても必要だろう。だがそれだけではなく、この物語の人魚姫が、死を目前に、かすみゆく視界と絶望の中で、最後に見つめた王子の寝顔が、彼女の目にどのように映ったのかを、これを読むすべてのひとに、想像してもらいたいと思う。

(写真は過去の記事で触れた女神 Ayaka)

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2006/06/04

ロリータ(ウラジーミル・ナボコフ著)

 お気に入りの本は何度も読み返す私が、これまで一番しつこく?読んだ本は、ウラジーミル・ナボコフ著「ロリータ」である。ニンフェット(小妖精)に魅せられた中年男のハンバート・ハンバート博士の悲劇を、重層的に丹念に描き尽くし、グロテスクな欲望を芸術の次元にまで高めた「類い稀な」文学作品であると、私は信じて疑わない。
 私はしばしば「ロリータ」の文庫本を持ち歩き、電車の中で、歯医者の待合室で、他の様々な場所で、もうほとんど暗記してしまっている文章に読み耽り、ハンバートの心の「からみもつれた茨」に、その深遠なる魅惑の森に分け入って、絶望と歓喜を彼の傍らでつぶさに目撃するのだ。
 そんな折、たまたま近くに居合わせた友人などから、「またそんな怪しい本読んでる!」とからかわれることがよくある。おそらく、彼らは「ロリータ」というタイトルから、性倒錯のポルノ的ないかがわしい小説をイメージしているのだろう。もしも彼らがこの本を読むことがあれば(多分ないだろうが)、そこに彼らが想像したような(あるいは期待するような)、淫らなセックスシーンの描写が、ただの一行もないことに驚くにちがいない。

 ロリータコンプレックスという言葉があるように、「ロリータ」は、思春期の少女に激しい欲望を抱く年配男の悲劇的な性質の解剖を試みる作品とも言えるだろう。
 ハンバートは魅惑の少女たちを「ニンフェット」と呼び、他の少女たちとは区別する。作品のはじめのほうにその定義が漠然と記されているのだが、それらを要約すると、年齢でいえば9歳から14歳の間の境界線に、ニンフェットたちは出現するそうだ。無論その年齢の少女がすべてニンフェットでは有り得ず、さらにニンフェットの基準は一般的にいう美貌などにはまるで関係なく、品位に左右されるものでもなく、「この世ならぬ優美さや、とらえどころなく不実で、心を千々に乱れさせる陰険な魅力といった特性」こそ、同世代の少女たちの中でニンフェットを区別する相違点なのらしい。
 私は女性で、しかもそのような性癖がないため、ハンバートの示す定義はわかりづらいが、この後に続く文章、すなわち、彼のいうニンフェットとは、普通の感覚の男にはなかなか見分けがつくものではなく、いくつかの徴候(しるし)によってニンフェットたちを即座に見分けるには、「芸術家で、狂人で、無限の憂鬱にとりつかれ、下腹部に熱い毒薬が煮えたぎり、鋭敏な背骨に激しい官能の炎が絶え間なく燃えさかるような人間でなければならない」というくだりが気に入った。
 いうなれば、美を見分ける直感についてハンバートは述べているわけだが、ジャンルこそちがえど、彼と同様にある種の美を即座に識別する感受性を自負する私には、この上なく自己満足的で爽快な文章だった。

 こうして冒頭から「ロリータ」に魅せられて、読み進むうちに、私はハンバートが自分の分身ではないかと思えるほど、彼が私に似ている(私が彼に似ている)ことに気付いた。
 私はこれまでの生活で自分と同質の感受性を持つ人物にお目にかかったことがなく、そしておそらくこれからもないだろうが、少なくとも書物の中で、親友に出会えたような気分になったのだ。
 「ロリータ」について語りたいことは尽きないが、今日はその中の印象的な、かつ私の大好きなひとつの場面を紹介したい。

 ニンフェットであるドロレス・ヘイズ(ロリータ)は、ハンバート博士が下宿する家の娘で、彼(ハンバート)は、絶えず少女の姿を、あるいはその残り香を探し求めて家の中を徘徊し、ニンフェットに魅せられた疼く心を変な日記に綴り続ける。その日記のおもしろさときたら!そこにはただ、様々な彼のたくらみが一向に進展しないことが、几帳面に、仔細に記されているのだ。
 この風変わりな日記の中で、とくに私が好んで思い出す場面がある。それは、ハンバートが彼女の通う学校のクラス名簿を見つけた日の記録だ。その名簿の一部を記すと、

      エンジェル・グレイス
      オースティン・フロイド
      ビール・ジャック
      ビール・メアリ
      バック・ダニエル
      バイロン・マーガリート
           ・
           ・(略)
           ・
      グッデイル・ドナルド
      グリーン・ルシンダ
      ハミルトン・メアリローズ
      ヘイズ・ドロレス(これが、ロリータだ)
      ホネック・ロザリン
      ナイト・ケネス
      マクー・ヴァージニア
           ・
           ・
           ・
      (以下、多数の名前が続く) 

 この長ったらしい名簿が、物語には何の関係もない名前が、延々と綴られていることに不思議な感じがしたが、続く記述により、私は目が覚めるような感覚に陥った。この種の愛情表現は、私のユーモアのセンスに強く訴えかけるのだ。
 
 『詩だ。たしかに詩だ!「ヘイズ・ドロレス」この名前の宝石のなかに、前後にローズ(ばら)の護衛をしたがえた彼女の名を発見したときの、あやしく甘い驚き。二人の女官にかしずかれた妖精の王女だ。私は、これらの名前のなかに、彼女の名を見るときの、しびれるようなよろこびを分析してみたい。感涙にむせぶほど私を興奮させるのものは、何だろう?』と、ここからはその精密な分析が始まるのである。
 薔薇の護衛を従えた王女というのは、上の名簿のドロレス・ヘイズ(ロリータ)の名の前後に、ハミルトン・メアリローズ、ホネック・ロザリンという名前があるからだ。
 この名簿では、彼にとってはロリータである少女が、ドロレスという本名のよそ行きな儀式ばったヴェールを被ったように感じられ、さらに、ファーストネームとサーネームが逆に書かれていることにより、それがひどく神秘的なものに思われるのだった。

 このような描写を綴った小説を私は他に見たことがない。クラス名簿を手にして、感涙にむせぶハンバート氏を想像し、こみあげてくる笑いと共感に、私はたちまちにしてこの書物に心を開いたのだった。
 確かに「ロリータ」は、中年男が少女と交接するといういかがわしくグロテスクな事実を軸にした物語ではあるが、このいまわしい性倒錯に向き合い、とことんその歓喜と絶望を探り尽くしたこの書は、間違いなく一級の文学作品であり、誰もが、どんな意味であれ、そこにある種の感嘆を覚えずにはいられないだろう。
 「ロリータ」は、ひとりの男が宿命的に引き受けなければならなかった、空漠とした悲しみと、愛の記録である。

 なお、この記事中での引用は、大久保康雄氏の訳によるものだ。最近別の訳者による、いわば新訳の本が出版され、旧訳と新訳についての議論があれこれと交わされているようだが、なぜか私はそんなことには一向に関心がない。それでもあえて言うなら、原文への忠実さがどうであれ、私は大久保康雄氏の訳文のほうを支持したい。

 

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2006/03/16

花になった美少年たち・後編(ギリシャ神話)

「ヒアキュントスとアドニス」(後編) (前編)

アドニス(アネモネ)

 ヒアキュントスが男の神々に愛され、その獲得をめぐって争いが生じたことに似て、アドニスは、女神たちの心を虜にしてやまぬ美少年でした。
 ヒアキュントスの場合と同様、二人の女神がこの美少年を奪い合います。最初にアドニスに目をつけたのは、美と愛の女神アフロディテ。シリアの王様の子として生まれたアドニスの美しさにすっかり魅せられた女神アフロディテは、この美少年をこっそりと連れ去り、地下に住む女神のペルセフォネに預け、育ててもらうことにしました。ペルセフォネの地下の御殿で大切に育てられたアドニスは、さらに美しい若者として成長し、いつしかこの女神ペルセフォネの心をも虜にしてしまったのでした。
 そんなわけですから、美と愛の女神アフロディテが地下の国を訪ね、アドニスを引き取ろうとしても、ペルセフォネはこの美少年を手放そうとはしません。二人の女神は互いに憎しみ合うようになり、収拾のつかない事態となりました。
 ここで偉大な神、天の支配者であるゼウスが登場します。ゼウスはこの争いを鎮めるため、一年を二分し、アドニスが秋と冬の間を地下の世界で女神ペルセフォネと共に過ごし、春と夏を女神アフロディテと暮らすという提案を出します。互いにアドニスを手放したくない二人の女神ですが、この提案を受け入れる他はありませんでした。

 地上に戻ってきたアドニスを迎えた愛と美の女神アフロディテの喜びは、たとえようもないものでした。アフロディテは美少年アドニスにつきっきりで、彼を片時もそばから離しませんでした。狩を愛するアドニスが獲物をさがして野山に出掛けるときも、その姿を愛しげに眺めながら、アフロディテは敏捷な若者の後を追ったものでした。
 ところがある時、女神アフロディテがちょっと目を離したすきに、アドニスは仕留めようとした一頭の大きなイノシシの牙にかかってしまいます。急いで駆けつけたアフロディテでしたが、流血し、死にかけた美少年をどうすることもできませんでした。
「アドニス、あなたは死んでゆくのですね。あなたとともに私の美も消えてゆくでしょう。女神の私は死ぬことができないので、あなたについてゆくこともかないません。アドニス、どうか最後に、別れの口づけをしておくれ」
 女神アフロディテの呼びかけは、死にゆくアドニスにはもはや届きません。アドニスの血に染まった土の上には、春が来るたびに真紅の花が咲き乱れました。ギリシャの女たちはそれをアドニス(アネモネ)と呼び、草木が枯れる秋冬には美少年アドニスの死を思って嘆き、春が訪れてアドニス(アネモネ)が咲きはじめると、美少年が生き返ったといってお祝いをするのでした。

 
 ナルシス、ヒアキュントス、アドニスという、いずれも若くして命を失った美少年たちの悲劇には、その忘れ形見として、それぞれに美しい花々が残されました。やせた土地の多いギリシャでは、野の花々が愛され、こうしてしばしば神話の題材にもされたようです。
 これらの花々の好みは別として、私の心をとらえるのは、やはりナルシスです。ナルシス神話は、ヒアキュントスやアドニス神話とは完全に異なる性質の物語です。ヒアキュントスとアドニスが神々の寵愛を得て、短い生涯を幸福に暮らしたことに対して、ナルシスは冷たく言えば自業自得の孤独の中に生きなければなりませんでした。
 ヒアキュントスとアドニスの物語の悲劇は、もっぱら彼らを愛し、そして彼らを失った者たちの悲しみに重点を置きます。その逆照射として、彼らの美がさらに決定づけられるという仕組を持つものです。
 これに対してナルシス神話は、ナルシスそのものが悲劇的存在で、そこに映る彼の美は、先の二人の少年たちには無縁であった暗い影に彩られます。他者の賞賛を必要としない美など、私たちはこの先何十年生きようと、そう簡単にお目にかかれるものではないでしょう。
 私はここではっきりさせておきたいのですが、このナルシスは今の世でいうナルシストとは異なる悲劇の存在です。昨今のナルシスたちが、常に他者の賞賛を必要とし、それをよりどころにしてしか自らの愛を築けないのに比べ、神話の美少年ナルシスは、完全無欠の孤独を受け入れ、その不毛の愛に命を捧げたのですから。その評価がどうであれ、この徹底した悲劇の物語は、私の心に深い印象を刻みます。
 
 花に姿を変えた三人の、いずれ劣らぬ美少年たちの神話について述べましたが、悲劇愛好家の私が、この三人の中でより悲劇性の度合いが高いナルシスを支持するのは、当然のことでしょうね(笑)。
 けれども残念なことに、ナルシスの化身の水仙は、私の好みの花ではありません。三種の花の中で私が最も好きなのは、アドニス(アネモネ)です。そしてたぶん、実生活でも私が愛する男は、ナルシスではなく、むしろアドニスなのかもしれません。

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2006/03/09

花になった美少年たち・前編(ギリシャ神話)

 花になった美少年で最も有名なのは、永遠の純潔、完全な孤独を象徴する美少年ナルシス(ナルキッソス)でしょう。このブログでも昨年11月14日に「美少年ナルシスの神話」で紹介しましたが、今でもこの記事が当ブログの人気NO.1の地位を保っています。これはもちろん、美少年ナルシスが時空を超えて今なお人々に愛されていることを意味するもので、私の出来損ないの記事は、そんな彼の人気の恩恵を受けたというにすぎません。
 ところで、あまりにも有名なこの悲劇の美少年の陰に隠れて、ほとんど目立たなくなっている二人の美少年がいます。彼らもナルシスと同様、若く美しい肉体を花に変えるのですが、ナルシスが生まれ持った性質から、人交わりのない孤独な生を宿命づけられていることに対して、この二人の少年はとても朗らかで、誰からも愛される幸福者でした。若くして命を奪われる彼らではありますが、そんなことから、悲劇の美少年の王座を、ナルシスに譲らなければならなかったのかもしれません。

「ヒアキュントスとアドニス」 

ヒアキュントス(ヒヤシンス)

 ヒアキュントスは多くの神々、とりわけ男の神々に愛された美しい少年でした。 彼は単に美しいというだけではなく、スポーツも万能で、戦にも強く、朗らかで申し分のない若者でした。
 そんな彼を従者にしようと熱望し、争ったのはゼフロスとアポロン。ゼフロスは西風の神で、アポロンは偉大な神ゼウスの子の中で最も男性美を誇る神。この争いでは、美貌の神アポロンが勝利し、ヒアキュントスを自分の従者にします。これでヒアキュントスをめぐるゼフロスとアポロンの戦いは、一見幕切れを迎えたようにも感じられますが、必ずしもそうではありませんでした。しかしそのことは、また後ほど・・・・

 ヒアキュントスを得たアポロンは、どこへ行くにもこの美少年を従わせます。美しく、優れたこの若者の従者はアポロンの自慢で、彼はこの上なくヒアキュントスをかわいがりました。
 ある日、いつものように連れだって出掛けた二人は、円盤投げをして遊ぶことにします。言うまでもなく、力に恵まれた神であるアポロンは優秀な投げ手であるわけですが、ヒアキュントスのほうも負けてはいません。しまいに二人は競技場の西と東にわかれて、どちらが遠くまで円盤を投げることができるかを競いはじめます。
 まずはヒアキュントス。美少年の投じた円盤は、力強く、高く遠く飛び、アポロンの足元に落下します。それを拾い上げたアポロンは渾身の力で、ヒアキュントスに向けて投げ返します。あまりにも高く飛んだ円盤は、雲を突き抜けたところで、かつてアポロンとヒアキュントスを奪い合って敗れた西風の神ゼフロスの目にとまります。二人に恨みを抱くゼフロスは、これを願ってもない復讐の機会ととらえて、強い風を吹き送ったのでした。
 ゼフロスの悪意の風に流されて、円盤はあっという間にヒアキュントスの頭部を直撃します。真っ青になって駆けつけたアポロンが目にしたものは、横たわり血を流す愛する少年の無惨な姿でした。
 アポロンはヒアキュントスを抱き上げましたが、もはや手遅れでした。美少年はアポロンの腕の中で、死に絶えようとしていました。ヒアキュントスを抱きしめて、アポロンは叫びます。
 「なんということをしてしまったんだ!こんな美しい若者を私は死なせてしまうのか!それができるなら、私が代わりに死んでいきたい」
 アポロンの叫びが響き渡ると、ヒアキュントスの血潮に染まった草が青々としてきて、そこから一本の美しい花が咲き出しました。
 アポロンはその花を、愛した少年の化身とし、ヒアキュントスと名づけたのでした。


 この古代ギリシャにおけるヒアキュントス(ヒアシンス)は、私たちが見知っているヒアシンスとは違う種類の花だったようです。 ヨーロッパの神話研究者として名高い山室静氏の著作『ギリシャ神話』(現代教養文庫)によると、ユリやアイリスに似た、真紅の花ではないかということです。
 それはともかくとして、この神話にも色濃く表されているように、古代ギリシャでは、男性の肉体美こそが至高の美として評価に値するものだったようです。精神性などに重きをおかず、明快な外面の美の勝利が確信される世界。私はそれを非常に清潔で、明晰なものに感じます。
 次回は花になったもうひとりの美少年、女神たちにこよなく愛されたアドニスの悲劇を紹介し、私なりのまとめを記します。

花になった美少年たち(後編)

  

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