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2007/01/14

雪国(川端康成著)

 川端康成の小説の中で、何が一番好きかと問われたら、私はちょっと迷った末に、『雪国』をあげるだろう。
 私が「ちょっと迷う」のは、青年期の瑞々しい感動に満ちた『伊豆の踊り子』を思うからだ。この作品の中の有名なセリフは、いつまでも私の記憶から消えることはない。

 「いい人ね」
 「それはそう、いい人らしい」
 「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」 
 
 孤児ゆえのひねくれた根性に反省を重ね、伊豆を一人旅する主人公は、偶然行き合わせた旅芸人たちの間で交わされた会話、この何気ない調子で語られた自分への評価を耳にして、澱んだ自分の心が清流に洗われるような感慨を抱く。
 主人公の孤独な魂を救済する、このささやかな美しいシーンは、同様に読者の胸にも一服の清涼剤のような、すがすがしい感動を刻む。そして、旅芸人たちと別れて、汽船の船室で鞄を枕にして横たわる主人公は涙を流す。頬が冷たくなって、鞄を裏返すほどに溢れる涙を出任せにする。
 孤独な魂が、自分にふと寄せられた人の好意を、素直に有難いものとして受け入れ、人間に対する信頼を回復する。そうした感動的な心の傾きを、清潔な文体で綴った『伊豆の踊り子』は、どのような時代をも超えて(人間の心情の本質はそれほど変わらないと私は信じるから)、万人の胸を打つ物語であり続けるにちがいない。
 思春期の私が初めて読んだ川端文学は『伊豆の踊り子』だった。たちまちにして川端康成のリリシズムに傾倒し、彼は私にとって愛する作家のひとりとなった。
 その後手当たり次第に作品を読み、川端美学がいくらかわかるような気になった私は(それと同時に年齢を重ねた私は)、今では川端美学の頂点にあるのは、『雪国』だと確信している。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という冒頭の一文は、文学に明るくない人でさえ、一度はどこかで聞いたことがあると感じるのかもしれない。
 今日は私の「悲劇のコレクション」に、川端康成の最高傑作としばしば称される『雪国』を加え、その美について考えてみたい。
 
                         ※

美の抽出・純白に映える炎の色

 川端康成は、この小説の読者がどのページのいかなる場面にいようとも、背景に雪国の底冷えのする重く閉ざされた静寂、その冷たさにおいて透明な美しさが存在することを忘れさせない。
 雪にあまり縁の無い土地で生まれ育った私は、この小説を読む間ずっと、冷たく澄み切った、弛緩のない空気を実際に肌で感じているような思いがした。冒頭の一文から徐々に導かれる雪国の景色によって、物語の美が成立するために必要な舞台が、読者の胸におのずと設定されるのだ。

 東京に妻子のある舞踏研究家(島村)が雪国の温泉宿で、土地の芸者である駒子と情事を重ねる。島村は自分に向けられた駒子の愛情を「徒労」と感じながらも、その切羽詰った思いの美しさに惹かれる。それと同時に、作品の冒頭の場面でたまたま列車の向かいの席に乗り合わせた葉子という女性(後に駒子を通じて島村は彼女と知り合うことになる)にも、次第に心を傾けてゆくのだった。

 川端康成自身が、「どこで切ってもいいような作品である」と述べているように、『雪国』には上に記した以上に特筆すべき物語性は無い。劇的な展開を期待して失望する人も中にはいるのかもしれないが、この小説はストーリーの巧みさで、読者のページをめくる手を急がせるものではない。
 それとはむしろ逆に、雪国の冷たく清らかな舞台を背景に、まばゆいまでに輝く情念の色彩に触れ、読者は何度も立ち止まり、時には留まり、せつなく流れ去る瞬間の美に心をふるわせる。
 この物語は、ままならぬ現実からの「美の抽出」という一点に成否を賭けて書かれたものであり、川端康成は見事な構成で、美の極致に迫り、その試みに成功している。『雪国』が極めて芸術性の高い小説と言われる所以はそこにある。

 田舎芸者の真剣な恋と絶望感という、どこにでもありそうな話が、『雪国』では美的な芸術作品にまで昇華される。冷たく弛緩の無い、はりつめた空気の厳しさが、そして読者の心の視界を覆う雪国の清らかな白さが、この物語を単なる情痴話に終わらせないための重要な役割を担う。
 読者が心に描く冷たい白さと、そこに映える炎の色。川端は物語のはじめに、車窓に映る葉子の顔に野山のかがり火が灯り、それが雪景色と二重写しになって流れゆく様を描写する。そして物語の主調音となる駒子の情熱の炎。また物語の最後では、火事になった繭蔵の二階から落ちてくる葉子の姿。こうした雪と火のイメージが全編をつらぬく。
 その配色のバランスに、作家は美意識を結集する。純白に映える様々な炎の色彩を「見つめる」ことで、読者は文学的というよりはむしろ絵画的な美しさを『雪国』に感じるのかもしれない。

 私の友人のある女の子は、『雪国』を読んで、「駒子のむなしい愛情や徒労が、あなたが言うようにどうやって美に結びつくのかわからない。あたしは駒子のようにはなりたくない」と、実に深刻な口調で言ったものだ。
 なるほど、もちろん私も駒子のような悲恋を自分の人生に望みはしない。しかし、悲恋や徒労が美の資格を持ち得ないとは、決して考えないだろう。
 実りあるものだけが、美しいのではない。私たちの人生には、むなしく、そして切なく過ぎ行く時がどれだけあるのかはわからないが、苦い記憶の中にも、空虚と思える時の流れの中にも、真剣に生き、利害を超えて何かを求める純粋な瞬間が必ず在り、そこには徒労やむなしさを超越した美が存在する。
 実りあるものと、満たされることのないものがある。しかし「美」は、そんな分け隔てを問題にしない。もしもこうした定義が、個々の人間の、ただその苦悩の切実さをとらえる感受性だけによるのだとしても。
  
 私にとって、川端美学の焦点はここにある。『雪国』は、せつなく輝く瞬間の美の姿を提示するだけで、実利的で実際的などんな評価も求めはしない。
 そこに、美が美である所以、そして厳しさがある。 

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