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2006/12/24

Pepiteの美的な日々:一目ゴム編みの世界

 このブログにも何度か登場した私の親友 mimi は毎年秋頃になると編み物を始める。その腕前はプロ級で、凝ったセーターやマフラー、帽子などをいくつも編み上げて、時折は私にプレゼントしてくれたりもする。付き合いが長いだけにその数も今では数え切れないほどだ。とりわけ帽子好きの私が冬の間に被っているニット帽はすべて mimi のお手製だと思って間違いない。
 編み物をする mimi の、器用によどみなく動く指先を見つめるのが私はとても好きだ。そんな時、日常の関わりでは感じたことのないような彼女に対する尊敬の念が、胸に広がってゆく。いつもなら、世間知らずでわがままな mimi に対して、保護者のような役割を演じているつもりの私だが、よく考えてみると、私は何かと理屈っぽく偉そうにしているだけで、実際に mimi の役に立つシーンなどほとんどないことに気づくのだった。
 それに引き換えmimi のほうは、寒がりの私を思ってニットを編んでくれたり、いい加減な生活を送る私の日常の面倒を細々と見てくれ、病気の時はいつも看病してくれる。mimi に対して、私が何か彼女が知らないような知的なことを言って気取る時でも、彼女は少しも私を尊敬したりなどしない。mimi にとって私は、ほったらかしにしていればゴミ溜めの中ででも生活しかねないだらしない人間で、年中風邪をひいては「保護」を求める、弱い子供に過ぎないのかもしれない。

 家が近いこともあり、私たちはよく一緒に過ごす。もっか専業主婦の mimi は大抵家にいるので、私の突撃訪問を避けることが難しい。休日に遅く目覚めておなかが空くと、私は彼女のうちに出掛け、何か作ってよと甘える。mimi は文句を言いながら、手際よく私に食事を提供する。先日などは、我が家に遊びに来たダーリンのごはんを作るのを面倒に感じた私は、二人して mimi の家に遊びに行くことを提案し、しっかりとごちそうになった。
 私にとって mimi はなくてはならない親友であり、互いに信頼しあえる、そして何の駆け引きもない愛情を互いに抱くことの出来る、大切な存在だ。変わり者で、人に理解されにくい私のことを、彼女は独自のやり方で理解する。言葉巧みな私は、時に対人関係において、うまく何かをごまかしたり、言い逃れたりするのだが、mimi に対してだけは、どんな「嘘」も通用しない。彼女は即座に私の心を見抜いてしまう。
 「Pepiteの興味をひくややこしそうな事柄はあたしにはわからないけど、Pepite自身のことなら、あたしは誰よりもわかっているつもり」と、mimi は言う。そして本当にその通りだと感じるから、mimi には頭が上がらない。

 この時期彼女を訪ねると、編み物をしていることが多い。毛糸を指にかけて、器用に編棒に絡ませるかっこいい mimi を見ていると、身の程知らずにも、私にだってできるのではないかという気になった。絶対にやめたほうがいい、という mimi の忠告を無視して、私はこの冬、マフラーを編むことを決意した。
 下手さ加減が目立たぬようにまだら色の毛糸を選び、編棒は mimi のものを借りることにした(買う必要はないと彼女はなぜか断言した)。
 はじめは細い棒で細かい目のマフラーを編んでいたのだが、これでは出来上がるまでに2年はかかるという mimi の見立てにしたがって、太い編棒を使い、一目ゴム編みという編み方でやり直すことになった。
 このときすでに30センチほど編んでいたマフラーは、mimi の手により素早く解かれ、私はそのせつない図を涙をこらえて見ているしかなかった。わずか30センチとはいえ、そこにたどり着くまでの苦労は、並大抵のものではなかったのだ。一段編んでは目を落としていることに気づいてやり直す。そのたびに毛糸はどんどん波打つフォームに変化する。ちりちりの編みにくい糸のせいで目が見えにくく、逆に編んでしまったり、あるいは緊張のためか力を入れすぎてぎしぎしになり、編み目の輪が棒にきつく巻きついて、まったく動かなくなったりもした。
 性格の悪い私はそれらを mimi の教え方のせいにして癇癪を起こし、「だから最初からやめたほうがいいって言ってるでしょ!」と、mimi も怒りを爆発させ、険悪ムードになることもしばしばだった。
 そんなとき、私は編み物を放り投げて、何か別のことをした。本を読んだり、テレビを観たり、食事をしたり・・・・・。しかししばらくしてまた編み物をそっと手に取ると、それに気づいた mimi は心の底からおかしそうに笑い、やさしさを取り戻して、この出来の悪い生徒に再び指導をはじめるのだった。
 一目ゴム編みに変わっても、私の失敗のほうは変わらず、いやむしろ糸を二本取りにしたことから余計に失敗が増え、苛立ちと失望の連続となった。しかし、私は一旦決意したことを途中で投げ出すタイプではない。私のこんな性質が、この場合、mimi にとってはいかに迷惑であったかは知る術もない(?)。
 編み物をしながら、mimi を真似て鼻唄でも歌おうものなら、私はたちまちミスをしてしまう。単純な繰り返しの作業ゆえ、手は機械的に動き、頭は別の世界を浮遊するなんてことは、普通の人にとってはたやすいことなのかもしれないが、私のようなベテランの夢想家にはそうはいかない。私の頭が空想の世界に遊ぶとき、現実は置き忘れられ、というか、すっかり忘れられ、ありもしない時の流れの出来事の中に私は生きることになるのだ。そうすると、現実の編み物がどうなるかは、あえて言うまでもないだろう。
 だから私はひとつひとつの編み目をこしらえるのに、絶えず精神を集中させなければならなかった。この単純作業に対する逃げ道(普通の人なら楽に得ることの出来る)が、私には与えられなかったのである。
 一日の多くの時間を夢想に費やす私が、こうして自分のスタイルを変え、長すぎる時をかけてようやく仕上げた一目ゴム編みのマフラー。私にとって、この一目ゴム編みの世界は、ひとえに、現実の直視を意味する。不恰好な編み目がひとつひとつ成り立っていくのと同じように、私という存在が現実に編み込まれる。
 私はこれほど現実と生真面目に向き合ったことはないのではないかという気持ちになった。根暗な私が、むなしく味気ない現実から逃れるために用いる常套手段を遠くに追いやって、ただひたすら、折り合いの悪い現実だけに向き合ったのだから。私にとって有り得ない世界が、こうして展開したのだ。

 完成したこの作品は、mimi かダーリンに贈るつもりでいたのだが、二人は口をそろえて、「こんなに苦労したのだから、自分で持ってるほうがいいよ」と言った。そして、完成品を感動の目でうっとりと見つめる私に mimi が言った。「Pepite、よくがんばったね。おりこうさん。一日だけそのマフラー私に貸して」と。
 そうして翌日私が我が子を迎えに行くと、「少しでも見栄え良くしようと思って洗ってみたんだけど、そんなに目がそろわなかったわ」と、mimi は残念そうに言うのだった。
 だからなんだというのか。これは単なるマフラーではない。私を現実に固くつなぎとめた類なき存在で、その意味は今や私にとって哲学的なものですらあるのだ。
 二人に拒まれた私の秀作だが、私自身もまた、これを首に巻いて町を歩こうとは思わない。実用的でも観賞向きでもないこの作品は、我が観念に彩られ、今は大切にガラスケースに収められて、私の書斎の片隅に飾られている。このむさくるしい部屋を訪れる陰気な(?)人たちを、大いに笑わせるという役割を演じながら。

                       ★★★

Photo20  MERRY CHRISTMAS !

 この2006年に、読者の皆様とこうして共に過ごす時間を持てたことを、とても嬉しく思います。「悲劇のコレクション」では、私の好みにしたがって、僭越ながら偉大な芸術家たちの作品を紹介させていただきました。私が感じる悲劇の美を、少しでも皆様に伝えることができたなら幸いです。そして「Pepiteの美的な日々」においては、時にワタクシゴトの馬鹿げた記事を載せましたが、それすら皆様が楽しんでくれたものと勝手に期待します。
 もうじき訪れる2007年が、皆様にとって幸福な一年となることを、心より願っています。そして2007年も、ふと思い出した時でかまいませんので、私のサイトを訪れみてください。
 
感謝を込めて

2006年12月24日

Pepite

       

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2006/12/08

山中淳子展「よるのいろ」@galeria CERO

Junko1_2  私の友人で、大変魅力に溢れる美人画家の個展に出掛けた。その作品のみならず、ほのぼのとした人柄や鋭い感受性、知性を感じさせる語り方が大好きで、私はこの山中淳子さんにずっと注目してきた。
 「よるのいろ」という名前が与えられた個展は、おそらく彼女の夜を彩る様々な思索、感情の流れを、絵筆を用いて芸術の次元で表そうという試みなのだと思うが、それぞれの作品において画面を構成するいくつかの要素の絶妙な配置は、観る者の目をやさしく誘(いざな)い、彼女の夜を彩る世界を垣間見させる。
 それは決して押し出しの強い表現というのではなく、彼女の描く絵はどれも、その空間に漂う「心」を、かくも自然に私たちの胸に印象づける。
 彼女が用いる緩やかなラインは、観る者の心情の襞(ひだ)に沿うようにできており、私たちはその流れに身を任せることで、ひとりの人間の「よるのいろ」を、素直に受け入れられるのだ。

                         ★

Junko2_2  もちろん、このような空間を創造するには、豊かな感受性が芸術の技巧を伴っていなければならない。
 彼女の内側で溢れる思想、感覚が表現されるとき、その同じ胸の内にある洗練された構成美のフィルターが機能する。
 アクリル絵具を塗り重ね、効果的にコラージュを散りばめて、最も重要な「感覚」に従った事物の配置を施す。
 山中淳子の心と、その芸術の技巧が交わる点に、作品が誕生する。そしてそこに示されるものが、実のところどのような心情に支えられているにせよ、「やさしい空間」としてあらわされることに、私はこの画家の魅力があるのだと感じている。

                          ★
 
 好き勝手なことを述べたが、おそらくこうしたことは当の画家からは、疎ましがられるだろう。
Junko3_2  彼女の絵画はそうした理屈や説明などは不要の「美」を持ち合わせているのだし、そこにこそ、彼女の目指す表現があるにちがいないからだ。

山中淳子展「よるのいろ」
2006年12月4日より12月9日まで
galeria CERO:大阪市西区北堀江1丁目3-11友成ビル2F  

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