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2006/11/30

Pepiteの美的な日々:雨降りの読書

幸福(モーパッサン著)

 退屈な雨降りの休日などに、私がふと読みかえしてみたくなる本のひとつとして、モーパッサンの短編集がある。冷徹、残酷と言われることの多いモーパッサンの作品の数々だが、私はそこに語られる人々の悲哀を超えて、彼がしばしば用いるノルマンディー(北フランス)地方の力強くかつ繊細な風景描写に、まるで一幅の美しい絵画を鑑賞したような読後感を抱く。
 息づく大地、やさしく過酷な自然、その中で永遠に続く平板な生活の営みを背景に、彼の描く悲劇はひととき姿をとどめ、去って行く。
 モーパッサンの作品において、悲劇は風景の中の際立つひとつの色彩のように、小説という名の彼の絵画を構成する。短編の中でほとんど脇道もなく悲劇が語られるときでも、なぜかその悲哀は、ゆったりと風景の懐に抱かれているようにすら感じられる。そんな折、「一流の風景画家」と称されるモーパッサンの筆致に、私は彼のやさしさを見るのだ。

 こうして私はこの前の雨降りの休日に、モーパッサンのいくつかの短編を楽しんだ。それらはどれも出来の良い小品で、軽妙な心地よい時を私に与えてくれた。おしゃべりな私はここでそのすべてを紹介したいくらいだが、今日はその中の一篇『幸福』を取り上げてみたい。

                         ※

 モーパッサンの短編『幸福』は、ある老紳士がコルシカ島を旅したときに偶然に知ることになった、貴族の娘とその父親の配下にいた男との恋物語である。
 
 小さな客間に集まって会話を楽しむ人たちは、窓の外の蜃気楼によってあらわれたコルシカ島の幻影に驚きの声をあげた。その時それまでひとことも口をきかなかった老紳士がはじめて口をひらき、「まあお聞きください」と、コルシカ島の幸福な恋の物語を語り始めたのだった。

 ずいぶん前にコルシカ島をひとりで旅した老紳士は、そこが未開の地であり、宿屋もなければ飲み屋もなく、道路もろくすっぽ整備されていないソバージュ(野性的)な、人影まばらな荒涼たる島であることを説明する。文化も産業もなく、ましてや芸術などには縁遠い無味乾燥な土地を旅するうちに、この旅人は、まるで世界の果てに来たような感覚に陥るのだった。
 そんなある日の夕暮れ、旅人は長い時間歩き通したあげく、海からたいそう離れた峡谷の奥にあるみずぼらしい一軒家にたどり着く。そこは密林と岩とに覆われた陰鬱な不毛の土地で、家というよりは小屋といったほうがいいその住まいの周囲には、小さな菜園と栗の木があるばかりだった。
 ひとりの身奇麗な老婆に迎えられ、旅人はそこで宿を借りることになる。藁椅子に腰掛けた亭主は八十を越えた老人で、もうほとんど耳が聞こえないのだと、夫人は旅人に言う。
 この夫人がコルシカ人でないことは、その純粋なフランス語が示していた。旅人がそのことを訊ねると、彼女は大陸の生まれで、しかし今や五十年間をこの土地で暮らしているのだと答えた。
 旅人がフランスのナンシーからやって来たことを告げると、この老婆の心は異様なまでの興奮に包まれるのだった。それというのも、彼女もまたナンシーの出で、しかもシルモン家という名門貴族の娘だった。シュザンヌ・ド・シルモンという名の美しい少女が、父親の配下にある連隊の一騎兵下士官と駆け落ちしたというスキャンダラスな事件が、旅人の記憶に蘇り、彼はシュザンヌ・ド・シルモンをこんな陰鬱な谷間に見出したことに、ほとんど恐怖に近い驚きを感じるのだった。
 彼がそのいきさつを知っていることを告げると、老婆の目からは涙が溢れ出した。彼女はうなずき、じっと座ったまま動かずにいる老人を、「それがあの人です」と、まなざしで示す。
 夫人がこの老人を惚れ惚れとした目で見つめる様子から、旅人は今なお彼女が変わらずに男を愛していることがわかった。それでも裕福な暮らしからの信じ難いこの転落に旅人は心を痛め、シュザンヌに訊ねる。「でも幸福だったのでしょう、少なくとも」と。
 老婆は心の底からにじみ出るような声で答える。「ええ、それはもう、とても幸福でした。あの人は私を本当にしあわせにしてくれたのです」と。
 旅人は恋の持つ力に驚嘆し、同時に悲しい気持ちになるのだった。家族を捨て、あらゆる贅沢を捨て、貧しい男の後を追い、自らも百姓女になりさがり、何の趣味もない生活に今や慣れ切って、粗末な食事を土鍋からすくって食べるシュザンヌ。
 装身具、絨毯、美食、やわらかな椅子、装飾に満ちた暖かい部屋、心地よい羽根布団、こうした一切を捨てることに、彼女は何の未練もなかった。彼女にはただ、彼さえいればそれでよかったのだ。
 旅人は、この常軌を逸した、しかし単純な恋物語に唖然とする。そしてこのようなうんざりするほどの貧しさの中で、完全な幸福が成り立っていることに心を打たれる。夜も更けて、粗末な寝床に枕を並べて平和に眠る老夫婦の鼾を訊きながら、旅人は一晩中この幸福について考え続けたのだった・・・・。

 こうして老紳士がコルシカ島の恋物語を語り終えると、一人の女性が言った。
 「それにしても、ずいぶん理想が低いんですのね。望みも古風で、要求も単純すぎるじゃありませんか。それでは愚かな女というほかないでしょう」
 すると、もうひとりの女性はこう言うのだった。
 「愚かな女だってかまいません。その人は幸福だったんですから」 
 客間の窓から見える蜃気楼が現出させたコルシカ島は、徐々に夕闇に溶け込んで、海に沈むように姿を消していった。まるでこの島が、なつかしい恋物語を語るためだけに現れたように、老紳士には思われるのだった。

                         ※

 『幸福』は、コルシカ島という原始的な土地を背景に、純粋な恋愛の原型を、作中の蜃気楼のように浮かび上がらせた小説である。ごく短い作品であるにもかかわらず、深い印象を残すのは、装飾性の少ないモーパッサンの明晰で簡潔な文体が、この物語の示す素朴な力強さを一層効果的に表しているからなのだろう。
 私がこのような恋愛に対して感じるものは、驚嘆、物悲しさ、羨望、感動と言った具合に、語り手の旅人とほとんど変わるところがない。しかしこの作品を読み終えて、私は幸福というものについて、真剣に考えさせられたのだった。
 幸福とは何か、などと言うと面映いが、その問いへの答えが、この小品の中には過不足なく書き込まれている。それはあまりにも単純な原理で、それゆえについうっかり忘れてしまいそうなことでもあるのだが。
 物語の終わり近くで、ひとりの女はシュザンヌを愚かと言い、もうひとりは、それでいいと言う。ひとつの人生を、他人の目で眺めた場合の客観的評価が、こうして分かれる。
 しかし、客観的な幸福などというものがそもそも在り得るのだろうか? 幸福というものがあくまで主観の問題である以上、この物語の二人の男女を、他の誰がどのように感じるにせよ、その評価が実際の対象物の心と真に関わることはない。
 他者の評価によって揺れ動くあまりに貧弱な幸福の例は枚挙に暇がないとしても、モーパッサンがここで言う「完全な幸福」というのは、客観的な判断や条件を置き去りにして成り立つ幸福、そういうものでなければならないだろう。
 それゆえ幸福について考えるには、モーパッサンのこの作品は、いささか極端な例という見方もあるかもしれない。しかしそれだけにわかりやすく、幸福の本来の性質を指摘し、客観的に幸福をはかることの無意味さを浮き彫りにしている。

 みなさんも機会があれば、雨の日でも晴れの日でも、ご一読ください。 
 
                

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