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2006/10/30

薔薇と海賊(三島由紀夫著)

 三島由紀夫の小説は苦手でも、「彼の戯曲は好きだ」と感じる人は少なくない。有名なところでは『鹿鳴館』や『サド侯爵夫人』など、今日まで変わらぬ人気を博している。
 劇的な効果を知り尽くした作家は、人口の極致とも言うべく巧みな構成で、観客の心に迫る空間を創造する。三島の作品が語られるとき、「人工」という言葉がよく使われるが、三島作品につきまとうその人工性は、小説の中でより、「劇」の中でこそ、その真価を発揮するのかもしれない。
 我々は小説に要求するリアリティーを、劇の中に求めはしない。舞台という、物理的にも閉ざされた空間の中では、物語は手際よく語られなければならないし、本筋を外れた、洒落た脇道などが許される範囲は、小説に比べてずっと少ないはずである。そして例えば、劇中の人物が、当の話し相手の方を見ず、観客席に向けて長いセリフを語るようなとき、その大袈裟な口調や身振りに観客が滑稽な感じを抱かないのは、「舞台」という特殊な環境をあらかじめ理解しているからだ。現実の対話ではありえない光景も、舞台の上では許容される。むしろ私たちはその虚構を通じて、現実との接触を試みようとしているのかもしれない。そしてこのような前提があるならば、私たちが舞台に望むのは、巧みに構成された出来の良い虚構、ということになるだろう。
 こうした条件を考えるなら、明晰で、ウイットに富み、いささか現実離れした三島の美学がより生き生きと輝くのは、戯曲の世界においてだと言っても、あながち間違いではあるまい。

 そんな三島由紀夫の数多い戯曲の中で、今日私が『薔薇と海賊』を話題にするのは、特にこの作品がお気に入りだからというのではない。三島が自決の一ヶ月前に上演されたこの芝居を観て、涙を流したということが、ずっと私の心に引っかかっていた。しかも舞台稽古を見学していたときにも、彼の目から涙があふれたのだという。それはいずれも、俳優があるセリフを言う場面であった。
 すでに死を決意し、それを目前にした作家が、この時何をそのセリフの中に、かつて自分が書いたセリフの中に、見たのだろうか。
 そんなせつない思いで、時折私はこの戯曲を読み返すことがある。私にとってこの作品は、「劇」としての出来栄えや、その目指すところのものなどは、ほとんどどうでもよかった。
 私がこの作品に触れる時、そこには、実際に綴られた劇の内容があるのではない。私が勝手に曲解した「受けとり方」があるだけだ。その意味でこの記事は、『薔薇と海賊』の<正しい>紹介文にはなり得ない。(この劇の持つ優れた象徴性が、すでに適切な言葉で多くの人たちによって語られている今、私などがそこに加わわろうとして背伸びする必要もなかろう)。
 彼の涙を前提にこの作品を読む時、そこに何を感じるのか。それだけに焦点を当てて、私はひとりよがりな、そしておそらくは多くの点で間違った(劇の真正な内容にそぐわない)事柄を綴ることになるのだろう。  
 

                          ※

薔薇と海賊

「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」

 童話作家の楓(かえで)阿里子を訪ねてきたのは、30歳になるイノセントの青年、帝一だった。彼は、自分を阿里子の童話の中の主人公ユーカリ少年だと信じている。
 不思議な星からやって来て、密林に落ちたユーカリ少年。犬のマフマフを従えて、ユーカリ少年は海を目指し、恐ろしいジャングルをかきわけて進む。海にたどり着いたところで、マフマフが海賊たちに捕らえられる。ユーカリ少年は薔薇の短剣で海賊たちを退治し、マフマフを取り戻す。海賊たちを船底に押し込めて、船の帆をあげ、自分が王様となる王国に向けて航海を始める。
 そんな御伽噺の世界で生きる稀な青年の存在に、阿里子の心が呼応する。それは天性の無垢と、意志によって築き上げた純潔との組み合わせだった。
 阿里子は結婚しており、夫の重政との間に千恵子という子供をもうけている。しかしこの結婚や妊娠は、女学生だった阿里子を重政が公園の裏山で無理矢理に奪ったことに端を発する。
 翌日、犯行現場を見に行った重政は、その同じ場所で彼が来るのを待っていた阿里子の姿を認めて驚く。阿里子の顔は蒼白で、重政はまるで幽霊を見たように思った。そしてまた、このような聖(きよ)らかな女の顔をかつて見たことがないと、重政は感嘆し、それ以来、阿里子に永遠の恋をするのだった。純潔を失ってはじめてその尊さを知った阿里子は、自分を守るために、重政と結婚する。結婚当夜、阿里子はきっぱりと重政を拒み、その後も二人の間に肉の交わりはなかった。重政が女をつくろうと、阿里子はまったく意に介さず、ひたすら童話の創作に情熱を傾けるのだった。一度の行為によって誕生した娘の千恵子には、彼女の童話の中のニッケル姫と同じ服装をさせるという徹底ぶりで。
 阿里子にとって、自分の童話に全身浸かりきった帝一は拒めるはずもない存在だった。大人の年齢と、完全な純潔とを同時に持つ奇蹟的な青年と、童話を書き、しかし決して夢は見ずに、意志によって壊れた純潔を守り抜く女。
 たちまちにして二人は求め合い、童話の筋書きを頼りに関係を築く。帝一の澄んだ目を見つめていると、阿里子は自分が書いた童話の出来事がどれも本当のことのように思えてくるのだった。帝一は率直に力強く、正面切って彼女の創造した世界を評価する。むしろ童話の作者はこの無垢な青年のほうではないかと感じられるほどに彼は熱心に語り、阿里子は彼を通じて自らの童話の姿を知らされる。
 帝一は阿里子に言う。「僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいているあの水平線まで・・・・・・。僕と一緒に行けば大丈夫なんだ。いつまでも僕が先生のそばにいさえすれば・・・・・・。」

 しかし、帝一は童話のユーカリ少年のように勇敢ではなかった。彼にはユーカリ少年の持つ「薔薇の短剣」がなかったからだ。反対に帝一はこの「薔薇の短剣」に脅かされていた。それというのも、帝一の世話をする額間という名の狡猾な後見人が、帝一のこの童話への傾倒を利用して、物語に出てくるのとそっくりな薔薇の短剣を作り、それを帝一に与えずに自分が所持することにより、帝一を思うままにコントロールしていたからだ。童話の中で薔薇の短剣の威力を知る帝一は、その美しい剣を振りかざして命令する額間に逆らうことができなかった。
 ところがある時、この薔薇の短剣が帝一のものになる。彼は歓喜し、自分がいよいよ王国の王になることを確信する。王国までの航海を阿里子に語って聞かせる。彼は地球ばかりではなく、あらゆる星の王様になるのだと言う。しかしこうして得た勇気も、再び「薔薇の短剣」を失うことにより、彼の中からすっかり抜き取られるのだった。

 帝一「船の帆は、でも破けちゃった。帆柱はもう折れちゃったんだ」
 楓 「その帆を繕うのよ。私は女よ。裁縫はうまいわ」
 帝一「だめだ。もう帆はもとに戻らないんだ」
 楓 「でも空には新しい風が光っているわ。手でつかむのよ」
 帝一「(手をのばして空気をつかむ)だめだ、指の間から風が逃げちゃう」
 楓 「でも太陽の光りが私たちを助けるわ」
 帝一「日はもう沈んじゃった」
 楓 「月がのぼるわ」
 帝一「月は冷たい」
 楓 「それから波が、ねえ、帝一さん、お魚たちが私たちの船を運ぶんだわ」
 帝一「お魚の背中は弱いよ」
 楓 「でも百万のお魚の青い背中が私たちの船を運んで行ってよ」
 帝一「阿里子・・・・・・」
 楓 「え?」
 帝一「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」


                         ※

 マフマフを従えた密林の冒険。海とたくさんの金貨と短剣の油と髑髏と革の帯と女奴隷の匂いがする海賊たち。彫金の薔薇を鞘につけ、柄にルビーを嵌め込んだ美しい薔薇の短剣。帆をあげる海賊船。珊瑚礁の上に眠っている小さな風たちが集まって、海賊船の帆をふくらます。風にふくらむ帆を、朝日が金色に染める。王国に向かう航海のはじまり。
 帝一は、そんな物語の中で生きているはずだった。けれども彼が、「僕はひとつだけ嘘をついていたんだよ。王国なんてなかったんだよ」と言い切るとき、それまで帝一を支えていた世界は論理的に崩れ去る。それは同じく、帝一と阿里子を結ぶ絆の崩壊でもある。
 人生の虚妄は、実際的な人の目から見た場合、単にその字のごとくむなしさをしか意味しないのかもしれない。しかし虚妄は機会さえあれば生き延びる。そして多くの場合、人を生かす力すら持っている。
 この劇の場合、帝一という存在、あるいは帝一と阿里子との関係を成り立たせていた虚妄が、根底から否定される。けれども、実はそうではないことに気づくとき、私はいっそう深い悲しみを感じずにはいられないのだ。
 つまり、それは単なる虚妄ではなく、寄って立つ足場のないことをあらかじめ認識された虚妄であるということだ。王国なんてない、という認識のもとに、帝一が王国を夢見た以上、さめざめとその現実を知らされる時でも、彼の世界はもはや崩壊しようがないのだ。

 死をすでに決意していた三島は、「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」というセリフに、何を感じ、涙を流したのか。
 ある人は、彼がそれまで住んでいた豪奢な御殿が明るい光に照らされたときに、朽木の建築だったことが明るみになり、人生の虚妄が消え行くことを知ったからだという。また、「自分のひとつだけの嘘」が、その時にわかったからだと言う。
 しかし私はそうは考えない。彼は朽木の建築に涙を流しはしないし、自分の嘘に気づいて感じ入ることはない。なぜなら、彼は朽木を使って絢爛豪華な建物を構築する精神の豊穣さを持っていた。そしてその嘘は、彼の認識の範疇にあるものだった。
 彼がいた場所は、真実を知って崩壊する虚妄の世界ではなく、あらかじめ、虚妄を虚妄と認識した上で築いた悲しい王国の中だった。そのことは明確に区別されなければならないし、そうでなければ、彼の涙にも、その死にも、近づくことは許されないだろう。

 直接の関係はないのかもしれないが、三島由紀夫は『重症者の凶器』という評論の中で、次のような文章を書いている。
 
「盗人にも三分の理ということは、盗人が七分の背理を三分の理で覆おうとする切実な努力を、つまりはじめから十分の理を持っている人間の与り知らない哀切な努力を意味している。それはまた、秩序への、倫理への、平静への、盗人のたけだけしい哀切な憧れを意味する」
 
『薔薇と海賊』を彼の涙を前提に読み返した時、なぜか私の脳裏にこの文章が浮かんだのだった。

サイト内の三島由紀夫に関する記事:金閣寺(美的なもの・2005年11月25日)

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2006/10/07

ワーグナーの毒

トリスタン・イズー物語(ベディエ編)

 『トリスタン・イズー物語』は、ケルト人の伝説を起源とする、中世ヨーロッパに広く流布した恋物語をジョセフ・ペディエの偉業が今日によみがえらせたものである。愛の秘薬を誤って飲み交わし、永遠に求め合う男女の悲恋が描かれている。

 コーンウォールの地を治めるマルク王のもとに、アイルランドより王の妃となるイズーを連れ帰る役目を果たしていた勇敢な騎士トリスタン。トリスタンはマルク王の甥であり、王の信頼厚く、この上なく愛されていた。
 この婚礼のために、イズーの母はイズーの待女であるブランジャンに密かに「葡萄酒」を預ける。婚礼の夜にマルク王とイズーがこの葡萄酒を二人きりで飲み干すように給仕することを命ずるのだった。この「葡萄酒」は、母が秘法と魔術によってつくり上げた愛の秘薬で、この秘薬を共に味わった者は、身も心もひとつになり、未来永劫に愛し合うことになるのだという。イズーの母は、娘の結婚が失敗に終わることのないように、この秘薬を生み出したのだった。
 アイルランドからコーンウォールへと向かう船旅の途中、あろうことか王の甥トリスタンとイズーがそれとは知らずに、この秘薬を共に飲み干してしまったのだった。
 その瞬間に、二人は恍惚の中で互いに愛し合っていた。自分を信頼し、こよなく愛してくれるマルク王への裏切りを思い、トリスタンは絶望する。イズーは王のものであり、自分は決してイズーを愛してはならぬのだと彼は自分に言い聞かせる。しかしトリスタンは全身全霊でイズーを恋し、求める自分をどうすることもできなかった。そして同様に、イズーのほうも、トリスタンを心の中から追い出そうとすることに失敗し続けるのだった。
 秘薬を飲み交わして三日が過ぎた時、トリスタンは涙を浮かべたイズーにたずねる。「愛しい人よ、あなたを苦しめるものは?」と。
 イズーは答える。「あなたをいとおしいと思う私の心です」。

 イズーのこの返答で、トリスタンは彼女の唇に、自分の唇を重ね合わせる。美しい二人の肉体は強く結ばれ、その恍惚の中で、欲求が波打ち、生命が輝きはじめるのだった。
 トリスタンは、「さらば、死よ、きたれ!」と言った。彼は、掟を超え、恩義に背き、すべてを超越して、この道ならぬ永遠の愛に身を滅ぼすことを覚悟したのだった。

 マルク王の妃となったイズー。王宮の中にあって王にかしずくトリスタン。この二人は偽りの仮面を被って、いつも一緒にいることができた。はじめの頃は誰も二人の仲を疑る者はなかったが、恋に酔いしれる二人には、互いに求め合う心から、その思いを隠し切ることができなかった。彼らの愛欲の疼きは、いたるところで露呈し、それに気づかぬ者は、もはやこの二人を愛し、信頼するマルク王ばかりとなっていた。
 騎士トリスタンの武勇を妬む四人の悪者が、トリスタンを追放するために、この道ならぬ恋に目をつけて、様々なたくらみを企てる。彼らはマルク王に二人の不倫を告げ、証拠を挙げて王の怒りを引き起こす。これにより遠く離れ離れになった二人であったが、どんなに引き離されても、どのような苦汁を舐めても、互いの魂は、そして肉体は忍び寄り、ついには死の抱擁によって、天上へと運ばれてゆくのである・・・・。

                         ※ 

 『トリスタン・イズー物語』は、ヨーロッパにおいては「情熱恋愛の神話」として、人々の心に多大な影響を与えたものとして知られ、そして愛されている。それはとりもなおさず、人々の心の底にある理想が、あらゆる掟や障害を超えたところになお成立する<永遠の愛>に向けられていたからなのだろう。
 この書物を評したガストン・パリスはこう述べている。「人生を平凡もしくは退屈な絶望におとしいれることなくして、この理想を取り除くことはできない」と。
 すなわち、それが私たちの飽くなき恋の理想の姿であったとしても、平凡や退屈を退けて、欲望を貫くとき、そこには各人の人生を破滅に追いやる危険な毒汁が満ちていることを指摘しているのだ。
 そしてこの物語の「毒」の甘美に心を奪われた者には、さらなる魔術が用意されていることを言っておかなければならない。
 現代社会に生きる私たちには、もはやこの物語で当たり前のように語られた秘法や秘薬は存在しない。だが、そのかわりに、一人の天才作曲家が、この秘薬に似た魔術を私たちに提供してくれていることを知ったならば・・・・。

 それは、ワーグナー作曲の『トリスタンとイゾルデ』である。(イゾルデとは、フランス語におけるイズーのドイツ語読みで、両者は同一の人物をあらわしている)。
 初めてワーグナーのこの作品に触れたとき、言葉にできないほどの強い衝撃を受けたものだ。とりわけ前奏曲と「愛の死」は、官能の昂ぶり、めくるめく愉悦感、絶対の愛の神秘、ほとんど死とすれすれの恍惚、こうした魅惑に満ちた危険な毒と、最上の美を敷き詰めた魔術的な旋律によって、聴く者の心を虜にする。
 
 ひとたびこのワーグナーの「毒」を喉元に流し込んだ者は、愛について考える時、その至上の恍惚を、死をもいとわぬ絆を、究極の愉悦と、そして苦悩とを、自らの凡庸な愛に照らし合わせることを、心のどこかで強いられるだろう。
 死を見据えた至福の官能に高揚し、打ち震える心を、この音楽によって体感するとき、ワーグナーの「毒」が、もはや消えぬ染みのように、胸の奥深くに刻み込まれるからだ。

 
 

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