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2006/08/11

思春期の心を支える音楽

 だいぶ前から気になっていて、なかなか観る機会に恵まれなかった映画『リリイ・シュシュのすべて』(2001年、岩井俊二監督)を、今日偶然にも友人の家で鑑賞した。
 この映画は、とある地方都市で暮らす中学生たちの歪んだ日常と、その中に潜む「ピュア」な心情を描いたものとして、かつて話題になった作品である。

 中学2年生の雄一は、学校ではいじめを受け、家では母の再婚によって居場所をなくす。彼の心を救うものは「リリィ・シュシュ」という名のミュージシャンが奏でる世界。彼と同様に、リリィ・シュシュに傾倒する若者たちが集うインターネットのファンサイトだけが、自分の本当の居場所だと彼は感じるようになる。そして、インターネットという媒体を通じて、一見つながれたと思われた、ある人間関係が、このケースでは、「現実」には何の変化ももたらさなかったという空虚な事実を、映画を観る者は知らされることになる・・・・・

 岩井俊二監督の生み出す詩的な映像は、あまりにも幻想的で、美しく、現実離れした様相をかもし出す。作中で描かれた泥臭い悲惨な事件も、なにかしら実体のないもののように感じられる。そして監督がこれをむしろ、思春期の「リアル」という視点で描いたのならば、その表現方法は的を射ていると、私には思われる。
 ある種の音楽に心酔し、いわば幻想に片足をつっこんだ状況で生き抜く思春期、幻想という媒体なしには現実と触れ合うことができない傷つきやすい青春期の視点を、その時期をすでに終えてここに在る私に、思い出させてくれたのだから。
 それは、この完成しきることのない物語が、ドビュッシーをはじめ、いくつかの美しい旋律の助けを借りて、観る者の心に陰影を与えたことに等しい。言い換えれば、こうした音楽の「助け」がなければ、この作品はもっとちがった評価になっただろう。
 そうした音楽の力が、ここではクローズアップされる。心酔する音楽が自らのすべてと言えた(あるいはそう思うことができた)、懐かしく危うい思春期に、私のような年配は連れ戻され、また、リアルタイムでその時を生きる若者は、共感を抱くのだろう。両者とも、いささか芸術的に作られすぎたこの映画の巧みな象徴性や、美しすぎる映像に、違和感を覚えながら・・・・。

 映画のレビュー書きはどちらかというと不得手な分野に属するため、『リリイ・シュシュのすべて』に興味のある方は、映画紹介のサイトなどで探してみてください。(この映画に対する私の感想を簡潔に述べるとすれば、好きなタイプの作品。しかし、いじめ、盗み、援助交際、レイプ、傷害、殺人といった劇的な要素をこれほどまでに盛り込まなければ、思春期の「リアル」を表現できなかったのだろうかと、疑問に思う)。

 今回の私の記事は、タイトルが示すように、この映画についてというより、この映画によって喚起された思春期の感傷をテーマにしている。しかし言うまでもなく、それは決してすべての人たちの思春期を象徴するものでもなければ、代弁するものでもない。
 この時期に「詩」を書く必要があった人々、あるいはそれに等しい感傷的、感覚的な体験を重ねた人々には、あるいは理解されるのかもしれない、と考えている。

 私の思春期を支えた音楽は、David Sylvian(デヴィッド・シルヴィアン)だった。このイギリスのミュージシャンが生み出す世界が、13歳の私に、現実とは別の次元の詩的空間があることを教えてくれた。彼の音楽は、私に愛を、美を、悲しみを、反抗と服従を、情熱と平静、静寂と魂を、私が本格的にこの人生に乗り出すよりも先に、認識させ、かつ、美的に刻んでくれたのだった。
 Davidゆえに私が得た「心の領域」を、今の私なら「センチメンタルな哲学」と名付けたいところだが、当時はずっと真剣に、Davidに全身をゆだねるような感覚で、彼の奏でる世界に浮遊した。
 それは癒しというより、絶望から美的な視点を得るための厳しい試みであり、苦悩を陶酔に変える詩的な体験の切実な痛みであった。

 思春期の私には、自分が生きる世界の全体像を客観的に捉える力はなく(おそらくそのような意思もなかっただろうが)、ごく限られた空間に自らを閉じ込め、そこで幻想的な幸福や悲しみに酔い、またそれを心の安住の地とした。
 そのような少女(少年)は、多くの場合、自らの言葉(心の表現)を生み出そうとする。感傷的で感動的な言葉を紡ぎ、現実を超越する。音楽はそのために必要不可欠な道具、というよりは、神であるのかもしれない。

 ここで、もう一度冒頭にあげた映画に戻って先を続けたい。この作品では、「リリィ・シュシュ」という名のミュージシャンに心酔する若者たちが、インターネットのサイト上に書き込む言葉の数々を、全編にわたって印象的にちりばめている。
 こうして綴られたダイアローグ、あるいはダイアローグを予期したモノローグの数々を、この映画の画面でつぶさに追ううちに、私には気づいたことがある。
 私の思春期には、こうしたインターネットのサイトはなく(正確には、私は知らず)、見知らぬ誰かと同一の崇拝(興味)の対象について語り合うこともかなわず、ただひとり、胸の内で、ある種の世界を構築するに過ぎなかった。
 その孤独からすると、昨今の環境はとても羨ましい。しかしよく見てみると、そうした大勢の共有の空間で語られる言葉は、私が孤独のうちに紡いだ言葉とさして変わることがない。一人きりであろうと、大勢であろうと、そこに大差はない。なぜなら、私が、そして彼らが、真の創造者(芸術家)ではないからだ。本物の芸術家なら、そうした崇拝の対象を「乗り越えて」、自らの境地を切り拓く強さと才能に恵まれているだろう。
 そうではない私や彼らがつぶやく言葉は、所詮、たかがしれている。
 しかし、そのせつない言葉の数々が必要な時が、私の人生には確実にあったし、あるいはこれからも、あり続けるのかもしれない。

 思春期の私の心を支えたDavid Sylvianの音楽について、わざわざ名前をあげておきながら、その紹介をせずにこの記事を終えることになりそうだ。
 彼ゆえに私が得たものは、今なお私の感受性の柱をなし、年齢を重ねて自分を着飾るコツを知った私の、傍目には見抜けないであろう裸の姿に直結するものがあるからだ。
 思春期ならいざしらず、もう今となっては、私は誰とも彼について語り合おうとは思わない。それほどに私は彼と共に生き、苦悩を詩的な空間で浄化させる術を、彼の力を借りてこの壊れやすい心の中に構築してきた。そして、そのプロセスは、宣伝することのできない、あるいは宣伝する必要のない、私の恥部でもあるからだ。
 大人になった今、Davidは私のものだと、堂々と言い切ることができる。他の誰かのDavidは、私の彼と同一ではないし、その共通項を求めて声をあげなければならないほど、もはや私は孤独に悩まされはしない。
 それはつまり、孤独を受け入れること、そこからすべてをはじめなければならないことを彼ゆえに学んだ教育の成果でもある。
 私のこのような姿勢は『リリィ・シュシュのすべて』という映画の中で、感受性の共感を求めて言葉を発した若者たちの、ある意味では、延長線上の姿であるのかもしれない。
 相変わらず私の心の内で、せつなくむなしい言葉が、精巧な刺繍のように形付けられるのだとしても。
 

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コメント

Pepiteさん おはようです!(o^∀^o)ノ

「思春期の心を支える音楽」の題名を見て私もあったかな?と思い考えこんでましたが何も思いつきませんでした(汗)
何となく現実を生きるのに必死だった気がします・・・。

岩井俊二監督の作品、タイトルは忘れちゃいましたが花火の映画から好きになってビデオをレンタルして何本か見たことあります♪見た後なんかモヤモヤするようなスッキリしない感じが苦手だけど見ちゃうんです(笑)

投稿: ファズ | 2006/08/13 09:54

>ファズさん

こんなマニアックな記事にまでコメントいただいて、恐縮です。ありがとう。
すごくベタなタイトルでしょ(笑)
後で変更するつもりで、とりあえず仮題として付けてたんですけど、
まあこのほうが、垢抜けない私をあらわすのに適切と思い直して、そのままにしました。
私も岩井監督の映画は、本当に好きかどうかはっきりしませんね。
ファズさんと同じで、好きだけど苦手というか・・・
でもこの作品はやはり力作だと、評価しています。
昨今の若者に関する社会問題を、一斉に寄せ集めた感じがしないでもないですが、
どのような背景を与えられようと、人間の心の働きなどは、そんなに変わらないのかもしれません。
空虚の中に一筋の希望が差し込むこと、そして結局は混沌とした現実の時の流れに何もかもが飲み込まれてゆくせつなさ。
すでに大人である私は、どんな状況であれ、音楽の助けなどなしに(笑)時をやり過ごす術を、なんとか身につけていますけどね。

投稿: Pepite | 2006/08/13 22:32

ワタクシなんて メーテルさんがでてくる
アレとか、アムロくんがでてくるソレとか
いわゆる アニソンが青春でしたですわよ!
でもそれが当時のワタクシにとっての

 現実とは別の次元の詩的空間

だったのかもしれませんわね
そもそもネットなんてありませんでしたし うふふ

投稿: dekako | 2006/08/13 23:37

>dekakoさん

陰気臭い記事にコメントしていただいて、ありがとうございます。
こんな内容には受け答えのしようもないだろうと思い、
今回はコメントを受けない設定にするつもりでした。
ところがそれを忘れて(ボーっとしてるので)、いつものようにアップしてしまったんですよ。
でもよかった。そのおかげで、dekakoさんの思春期の詩的空間について少しは知ることができましたから。
私もメーテルが好きですよ。
一説によると、dekakoさんはメーテル体型ということですが!
メーテルはあの神秘的な雰囲気がいいですね~。

投稿: Pepite | 2006/08/14 22:19

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