« Pepiteの美的な日々:ご挨拶 | トップページ | Pepiteの美的な日々:アフタヌーンティー »

2006/08/27

怖るべき子供たち(ジャン・コクトー著)

 君の幸福には仕掛けがある、不幸が君に仕掛けする。

 先日何かの折にふとこのフレーズを思い出し、久しぶりにコクトーの詩集を手に取った。『オペラ』に収められた<軽い牧場>の中の、私が愛する一行だ。
 生まれながらの詩人であるコクトーは、十歳に満たぬ頃からその才能を認められ、パリ中の注目を浴びた。後に彼は「芸術の軽業師」といわれたように、小説、演劇、バレイ、デッサン、評論、映画と、その多彩ぶりを発揮して、アートのジャンルを渡り歩いた。
 彼は人々の心を大いに魅了した芸術家だが、その軽業師的な多彩ぶりに彼の軽薄さを見てとる人々には嫌われもしたようだ。楽譜も読めないのに音楽に手を出し、いっぱしの音楽家のように振舞う彼に、我慢ならない人たちもいただろう。デッサンにしても、あるいは映画にしても同様のことが言えるのだが、コクトー自身はきちんとそのことをわかっており、事実、彼は多岐のジャンルにおける自らの作品に、「詩」という冠をかぶせることにより、その立場を統一して表明している。
 例えば、小説なら poesie de roman (小説の詩)であり、映画なら poesie de cinema (映画の詩)というふうに、その形式が何であれ、彼という詩人が生み出す「詩」の表現であることを強調しているのだ。

 そうしたジャン・コクトーの様々な芸術表現の中から、今日私は『怖るべき子供たち』という小説を<悲劇のコレクション>に加えることにした。
 小説といっても、前述のように、これは小説という形式を借りた彼の「詩」である。それは次のようなことからも説明できる。すなわち、多くの文学作品が、読者に説明し、そして読者を説得しようと試み、ついには読者をその世界に取り込んでしまうことを目的としているのに対して、コクトーの「詩小説」は、また、あらゆる「詩」は、説得を目指さない、事象や感受性を暗示した、象徴的な圧縮の世界であるからだ。
 したがって、この小説を読むには、詩を読むのと同様の困難さが、つきまとうのかもしれない。
 しかし、このフランスの天才詩人ジャン・コクトーをまだ知らないという人にとっては、彼のことを「好きかどうか」が、この『怖るべき子供たち』で判断できるのではないかと、私には思われる。
 というのも、初期の作品から後期に至るまで、コクトーが表現し、主張してきたものは一貫しており、ほとんど変わることのない彼独自の詩的感性に基づくものだからだ。そして、その中でもとりわけ、後の芸術家たちに多大なるインスピレーションをもたらしたこの作品は、「コクトー愛」をはかる、ひとつの有益な目安になってくれるのではないかと思う。

  
怖るべき子供たち

 病弱で顔色の蒼白い少年ポールは、学校の大将である乱暴者の男の子ダルジュロを愛していた。その愛は、ただ途方に暮れるしかない、肉欲を伴わない、漠然とした、けれども、激しく清らかな愛だった。しかし、英雄ダルジュロにとって、ポールはとるに足らない存在であり、ダルジュロはポールの弱々しさを軽蔑していた。
 ある冬の日の下校時、通学路にあたる広場で、雪合戦が行われた。ポールはこの遊びに参加しているはずのダルジュロの姿を探し求めて駆け出した。ダルジュロに加勢して、彼の役に立ちたかったからである。
 だが、ダルジュロはポールの助けなど必要としない。ダルジュロが投げた雪球がポールの胸の真ん中に命中し、この蒼白い少年は口から血を流しながら、冷たい雪の上に倒れる。
 
 負傷したポールを家に連れ帰ってくれたのはジェロームという少年で、ポールがダルジュロを愛するように、ジェロームはポールの弱さゆえに、彼を愛した。
 ポールの住むモンマルトルの家には、病身で寝たきりの母と姉のエリザベートがいた。ほとんど死を待つばかりの母は、この二人の姉弟の生活に介入することがない。
 二人が共に暮らす「部屋」には、外界からは隔たった二人だけの秩序、あるいは秘儀ともいうべきものが存在し、そこで二人はそれぞれの空想にふけった(放心した夢想状態に身を置くことを、彼らは「出かける」と表現した)。また、彼らだけにわかる厳密な基準により選ばれた宝物を収めた引き出しには、万年筆の鞘やアスピリンのケースなど、人の目にはガラクタにしか映らない数々の品物が、彼らにとっては途方もなく大切な宝物として、この閉ざされた部屋の中では存在感を放つのだった。 
 やがて母親の死を迎え、この「部屋」はより複雑な空気に歪められながら、子供たちの抱く様々な空想の装飾をほどこしていった。二人は自分だけの部屋を持ちたいとそれぞれに思いながらも(それは可能なことであったが)、二人の部屋を離れることはなかった。

 この空間に出入りが許されていたのは、先ほどのポールの友ジェロームと、エリザベートの新たな友人であるアガートという少女だけだった。
 ポールを愛していたジェロームは、次第にその恋の対象をエリザベートへと変えてゆき、彼はもうエリザベートなしではいられないまでになっていた。けれどもジェロームはエリザベートを巫女か聖女のように感じていたから、自分が彼女を手に入れるなどという大それた考えを決して抱きはしなかった。
 また、ポールは、新たに出現したアガートを密かに愛するようになるが、それはアガートが、まるでダルジュロの妹といっても不思議がないほどに、かつて彼の心を支配した粗野な少年に顔立ちが似ていたからだった。そしてアガートも、ポールに思いを寄せていたのだが、彼女にはポールが自分を馬鹿にしているようにしか見えなかったのだった。
 だが、ポールとアガートは、それぞれに自分の思いを相手に打ち明けようとする時を迎える。それは、姉弟の「部屋」が崩壊し、新たな秩序の誕生をうながすに違いなかった。そのことを知ったエリザベートは、嘘によってこの二人を引き離す。
 失意のポールは、彼の英雄であったダルジュロから贈られたこぶしのような毒薬の黒い球(かつて彼はダルジュロから同じような白い雪球の一撃を胸に受けたわけだが)を口に含み、生死の境をさまようのだった。
 アガートが駆けつけた時、エリザベートの嘘が明るみになる。悪意によって引き離されたことを知った二人はエリザベートを罵倒する。しかし、エリザベートはアガートの腕の中にいるポールの目を見つめることによって、彼らの凡庸な愛の中から弟を取り戻したことを確信したのだった・・・・・。

                         ※

 無秩序そのものに見える怖るべき子供たちの生活の中に、外側からは知りようもない神秘的な法則が存在する。秘儀や宝物、諍いや無目的な生の消耗などに、大人はその片鱗を見るに過ぎない。
 唯一この物語に登場する大人の中で、彼らの生活の雰囲気に溶け込むことができたのは、上記の筋書きには記さなかったが、マリエットという名の、彼らの世話をする年配の女中だけだった。私はこの作品における彼女の存在をとても好ましく感じる。正確に言うならば、このような人物を配することを忘れなかったコクトーの感性を愛しく思うのだ。ポールとエリザベートが旅行に出掛けた折、そのお土産として、盗んだものではない飾りピンをマリエットに贈ったというほんのささいな一行に、この捉えがたい子供たちの内にある純粋な愛情を確認し、私の心はひととき幸福を感じたものだ。
 『怖るべき子供たち』の翻訳者でもある画家の東郷青児氏は、この作品について「日陰の植物があお白い本能のままに、ひょろひょろと伸びてゆく感じ」という、まさに言い得て妙の言葉を記している。また、画家である氏は、この小説の空間に不思議と色彩を感じないということだが、色の構成とその効果を知り尽くした人物の言だけに、私のようなその分野に疎い者には大変興味深い感想だ。
 同性愛、秘儀、宝物、盗み、空想、神秘、近親相姦と、蒼白く未成熟な神経が剥き出しにされたこの詩的な閉鎖的空間で、狂気も正気もいっしょくたになり、いかなる誇りも、目的も持たない感受性の発露が、読者の心にコクトーの世界を刻む。
 私がそれを確かに知ることができるのは、例えば三島由紀夫の『仮面の告白』に登場する粗野で肉体的魅力にあふれたあの近江少年が、ほとんどダルジュロであり、近江を愛する貧弱な少年は、それが三島由紀夫その人であったとしても、コクトーと三島の心理的な関係を知る者なら、そこにポールの影を見ずにはいられないだろうからだ。
 また、映画では、フランスの女流監督ヴィルジニー・テヴネの秀作『エリザとエリック(原題:火遊び)』が、ストーリーの細部は異なるにせよ、コクトーの作品の映像化に成功した稀な例であることは、『怖るべき子供たち』を知る者には、無条件に理解できるだろう。 
 

|

« Pepiteの美的な日々:ご挨拶 | トップページ | Pepiteの美的な日々:アフタヌーンティー »

コメント

Pepiteさん こんにちは!(o^∀^o)ノ

Pepiteさんは本当にたくさんの本を読んでいらっしゃるんですね~!
やはり洋書が多いですか?
私が本を読んだとしてもここまで深く考えて読んだりしないのでPepiteさんのブログを見ると本と言う物はこうして読む物なのかと考えちゃいます。
私の読書の仕方は読んでる時はそんなふうに思ってないのだけど、あまり頭に残ることがないから流して読んでるんだろうな・・・って思います(^^;)
勉強になります!

投稿: ファズ | 2006/08/28 11:35

>ファズさん

こんばんは!
コメントありがとうございます。
私の読書量はたいしたことありませんが、
気に入ったものはとことん読み込んでいるんです。
だから、それ以外は(笑)流し読みすることも多いですよ。
前に読んだはずなのに、全然内容を覚えてないものも結構あります。
今日はちょっと目を離したすきに、カピに壁紙をかじられてしまいました。
カピのおかげで家はボロボロ。
文学はともかく、私の日常の悲劇にはいつも鳥と馬が絡んでいるようです(笑)


投稿: Pepite | 2006/08/28 21:52

コクトーと言えば真っ先に思い浮かぶのが「美女と野獣」。近年ではミュージカルやディズニーのアニメーションでおなじみですが、やはりジャン・コクトーの監督作品には足元にもおよびません。

怖るべき子供たちは、読んだことがないです。
コクトーは「芸術」全般にオールマイティにその卓越した能力を持ち、まさに芸術の天才でしたね。
絵を描く、文章や詩を書く、映画を監督する=文章を実写と言う絵にする・・・やはりこの辺は繋がっていますが、果たして今現在の監督でこれが出来る人は一体何人いるでしょうか?
以前TVでコクトーの特集をやっていて、南フランスにある彼の記念館に飾ってある数々の絵を見て、思わずため息が漏れてしまいました。

これを読んだら、また「美女と野獣」が観たくなりました。ごめんなさい、「恐るべき子供達」について書かれているのに。

いつか機会があったら読んで見ますね。


投稿: Diane | 2006/09/03 01:41

>Diane様

お久しぶりです。
元気にしていますか?
だいぶ涼しくなって過ごしやすくなりましたね。

何でもこなせるコクトーは私の憧れです。
Diane様がおっしゃるように、映画ではその才能を高く評価されていたようですね。
同時代のフランスの一流映画監督らは、彼のことを「映画人コクトー」と呼んでいたそうです。
「美女と野獣」にしても、相当なこだわりを持って作った映画ということで、その映像や構成はすばらしいものですね。
私もDiane様のコメントを読んで、また「美女と野獣」が観たくなりましたよ。

投稿: Pepite | 2006/09/03 11:19

子供というものは常識にとらわれないぶんだけ
大人からみれば善でない部分が多いのでしょうね。
この登場人物たちの20年後をみてみたいものですわ うふふ

投稿: dekako | 2006/09/03 12:09

>dekako様

こんにちは。
ご来訪ありがとうございます。
彼らの20年後だなんて、なかなかおもしろい見方をしますね。
案外普通のサラリーマンになってたりして?!

投稿: Pepite | 2006/09/04 10:46

初めまして、こんにちは
コクトーの詩が好きで調べていたら
このサイトにたどり着きました。

もう管理人様がご覧になることはないかもしれませんが、
素敵な要約に感激したのでお礼のコメントとして残させていただきます。

これからもたくさんの本をお読みになって
その本たちの美点を見つけてもらいたいものです。

長文、乱文失礼しました。

投稿: Himmel | 2011/01/29 09:52

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/151358/11602344

この記事へのトラックバック一覧です: 怖るべき子供たち(ジャン・コクトー著):

« Pepiteの美的な日々:ご挨拶 | トップページ | Pepiteの美的な日々:アフタヌーンティー »